今日のお気に入りの1枚
バナナの花(花フェスタ記念公園にてまり姫撮影)

今日の記念日
※苗字の日
1870(明治3)年、戸籍整理のため、太政官布告により平民も苗字を持つことが許された。
しかし、なかなか苗字を持とうとしなかったため、1875(明治8)年2月13日に、全ての国民が姓を名乗ることが義務づけられた。
※子規忌,糸瓜[へちま]忌,獺祭[だっさい]忌
俳人・歌人の正岡子規[まさおかしき]の1902(明治35)年の忌日。
辞世の句に糸瓜[へちま]を詠んだことから糸瓜忌、獺祭書屋主人という別号を使っていたので獺祭忌とも呼ばれる。
誕生花
女郎花[おみなえし] Patorinia「花言葉は親切」

秀吉時代の秀長2
この記事は私の独自の解釈で書いたものですから、出典文献の付記されていない部分は史実と違うことがあることをご了解の上お読みください。
なお、私は歴史研究家ではありませんから異論・異説等はお受けいたしかねますのでご了承ください。
関白となった秀吉でしたが、上洛に応じない家康に手を焼きます。妹:旭姫、母:大政所を人質に出す事に秀長は悩みながらも同意します。天正14年2月8日(1586年3月27日)、摂津国有馬湯山へ入る(『多聞院日記』)。秀長はこの頃から体調が崩れやすくなった思われ、この後も数度にわたり湯治に来ています。また湯治中に金蔵院・宝光院などが見舞いとして訪れており、本願寺顕如からも使者が訪れています。
同年10月26日(12月6日)、上洛を拒み続けた徳川家康がついに大坂に到着し、秀長邸に宿泊したことは有名な事実です。その晩、秀吉自身が家康に臣従を求める事件が起きたとされ、多くの歴史研究家や小説、ドラマ等でもそのように描いています。この事を記す記録書は(『家忠日記』、『徳川実紀』)などで、後に書かれたものです。とくに、『家忠日記』、『徳川実紀』は徳川家を主体としたものであり、事実をそのまま反映しているかは疑問が残ります。しかも秀長・秀吉以外に記されている人物は浅野長政だけであり、本当に秀吉が家康に臣従を求めたのか、当人たち以外に知るものはないと考えた方が面白いのではと思います。
天正15年(1587年)、秀長は九州征伐では別働隊である日向国方面の総大将として出陣します。秀長が病をおして出陣したことで、秀長の身を案じた秀吉は、多賀大社からお守りを取り寄せ秀長の兜の中に貼り付けたことは事実のようです。
秀長が耳川の戦いの舞台となった高城を包囲すると、高城の援軍として駆けつけた島津義弘が宮部継潤の陣に夜襲をかけました(根白坂の戦い)。継潤が抗戦している間に、秀長は高虎・孝高と合流したため、島津軍の夜襲は失敗に終わり薩摩国に撤退しました。その後、島津家久が講和に秀長を訪ね日向方面の進軍は終了することになり、事実上九州征伐は終わりをつげます。
秀長は、九州征伐の功績により8月に従二位・大納言に叙任されました。
天正17年1月1日(1589年2月15日)、大坂城において諸大名と共に秀吉に新年祝賀の太刀進上を行う(『後編旧記雑録』)。この後大坂城を訪れたという記録はなく、これが秀吉との最後の面会と思われます。
天正18年(1590年)1月頃から秀長の病が悪化、小田原征伐にはついに参加できませんでした。10月頃に秀次が秀長の病気本復を祈願のため談山神社に訪れたことがわかっており、秀長と秀次の関係は良かったと思われます。
天正19年1月22日(1591年2月15日)、秀長は郡山城で病死しました。享年52。
秀長の死去時、郡山城天守には銭が部屋いっぱいに積まれていたという逸話も残っています。
秀吉のように派手に遊興せず、大和・紀州・摂津の領国の統治に力を注いだ秀長の一面かもしれません。
秀長には男子がいなかったため、家督は甥の豊臣秀保を養嗣子として後を継がせました。
戒名は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」。現在の大和郡山市箕山町に「大納言塚」が伝わり、今も多くの秀長フアンが訪れています。また大阪市中央区の豐國神社には、兄・秀吉及び甥・秀頼と共に祀られています。
終わりにあたって
豊臣秀吉の天下統一という偉業の影に隠れた実弟秀長の功績はどういものだったのか。兄弟同士でも殺しあう下克上の世にあって、秀長の類まれなる知力・統率力がなければ秀吉の天下統一はなかったかもしれません。
もう1つうがった見方をすれば、家康が最も恐れた武将は秀長だったとも考えられます。
百戦将軍ともいわれた秀長が家康討伐に動けば、家康はひとたまりもなかったのではとも考えられます。家康が豊臣臣従の際に秀長邸に入ったのも、秀長の機嫌を損ねたくなかったのではないかと考えると、また違ったものが見えるかもしれません。
秀長死後の朝鮮出兵や秀次と秀頼との世継ぎ問題などで、ことごとく秀吉の策は裏目に出た事を考えると、秀吉は秀長がいてこその天下人であったように思えてしまいます。(おわり)
株価のように乱高下するランキング

(↑ポチ
) (↑ポチ
)
バナナの花(花フェスタ記念公園にてまり姫撮影)

今日の記念日
※苗字の日
1870(明治3)年、戸籍整理のため、太政官布告により平民も苗字を持つことが許された。
しかし、なかなか苗字を持とうとしなかったため、1875(明治8)年2月13日に、全ての国民が姓を名乗ることが義務づけられた。
※子規忌,糸瓜[へちま]忌,獺祭[だっさい]忌
俳人・歌人の正岡子規[まさおかしき]の1902(明治35)年の忌日。
辞世の句に糸瓜[へちま]を詠んだことから糸瓜忌、獺祭書屋主人という別号を使っていたので獺祭忌とも呼ばれる。
誕生花
女郎花[おみなえし] Patorinia「花言葉は親切」

秀吉時代の秀長2
この記事は私の独自の解釈で書いたものですから、出典文献の付記されていない部分は史実と違うことがあることをご了解の上お読みください。
なお、私は歴史研究家ではありませんから異論・異説等はお受けいたしかねますのでご了承ください。
関白となった秀吉でしたが、上洛に応じない家康に手を焼きます。妹:旭姫、母:大政所を人質に出す事に秀長は悩みながらも同意します。天正14年2月8日(1586年3月27日)、摂津国有馬湯山へ入る(『多聞院日記』)。秀長はこの頃から体調が崩れやすくなった思われ、この後も数度にわたり湯治に来ています。また湯治中に金蔵院・宝光院などが見舞いとして訪れており、本願寺顕如からも使者が訪れています。
同年10月26日(12月6日)、上洛を拒み続けた徳川家康がついに大坂に到着し、秀長邸に宿泊したことは有名な事実です。その晩、秀吉自身が家康に臣従を求める事件が起きたとされ、多くの歴史研究家や小説、ドラマ等でもそのように描いています。この事を記す記録書は(『家忠日記』、『徳川実紀』)などで、後に書かれたものです。とくに、『家忠日記』、『徳川実紀』は徳川家を主体としたものであり、事実をそのまま反映しているかは疑問が残ります。しかも秀長・秀吉以外に記されている人物は浅野長政だけであり、本当に秀吉が家康に臣従を求めたのか、当人たち以外に知るものはないと考えた方が面白いのではと思います。
天正15年(1587年)、秀長は九州征伐では別働隊である日向国方面の総大将として出陣します。秀長が病をおして出陣したことで、秀長の身を案じた秀吉は、多賀大社からお守りを取り寄せ秀長の兜の中に貼り付けたことは事実のようです。
秀長が耳川の戦いの舞台となった高城を包囲すると、高城の援軍として駆けつけた島津義弘が宮部継潤の陣に夜襲をかけました(根白坂の戦い)。継潤が抗戦している間に、秀長は高虎・孝高と合流したため、島津軍の夜襲は失敗に終わり薩摩国に撤退しました。その後、島津家久が講和に秀長を訪ね日向方面の進軍は終了することになり、事実上九州征伐は終わりをつげます。
秀長は、九州征伐の功績により8月に従二位・大納言に叙任されました。
天正17年1月1日(1589年2月15日)、大坂城において諸大名と共に秀吉に新年祝賀の太刀進上を行う(『後編旧記雑録』)。この後大坂城を訪れたという記録はなく、これが秀吉との最後の面会と思われます。
天正18年(1590年)1月頃から秀長の病が悪化、小田原征伐にはついに参加できませんでした。10月頃に秀次が秀長の病気本復を祈願のため談山神社に訪れたことがわかっており、秀長と秀次の関係は良かったと思われます。
天正19年1月22日(1591年2月15日)、秀長は郡山城で病死しました。享年52。
秀長の死去時、郡山城天守には銭が部屋いっぱいに積まれていたという逸話も残っています。
秀吉のように派手に遊興せず、大和・紀州・摂津の領国の統治に力を注いだ秀長の一面かもしれません。
秀長には男子がいなかったため、家督は甥の豊臣秀保を養嗣子として後を継がせました。
戒名は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」。現在の大和郡山市箕山町に「大納言塚」が伝わり、今も多くの秀長フアンが訪れています。また大阪市中央区の豐國神社には、兄・秀吉及び甥・秀頼と共に祀られています。
終わりにあたって
豊臣秀吉の天下統一という偉業の影に隠れた実弟秀長の功績はどういものだったのか。兄弟同士でも殺しあう下克上の世にあって、秀長の類まれなる知力・統率力がなければ秀吉の天下統一はなかったかもしれません。
もう1つうがった見方をすれば、家康が最も恐れた武将は秀長だったとも考えられます。
百戦将軍ともいわれた秀長が家康討伐に動けば、家康はひとたまりもなかったのではとも考えられます。家康が豊臣臣従の際に秀長邸に入ったのも、秀長の機嫌を損ねたくなかったのではないかと考えると、また違ったものが見えるかもしれません。
秀長死後の朝鮮出兵や秀次と秀頼との世継ぎ問題などで、ことごとく秀吉の策は裏目に出た事を考えると、秀吉は秀長がいてこその天下人であったように思えてしまいます。(おわり)
株価のように乱高下するランキング


(↑ポチ


スポンサーサイト