昨日の衆議院議員選挙の結果は、大部分のメディアの予測どおり、政権与党の自民・公明両党の惨敗という結果になりました。
4年前の「郵政選挙」とは間逆の結果です。
自公両党の大物議員が次々と落選し、民主党が308議席を獲得して政権移行が確実となりました。
政権与党の10年余の失政の結果とはいえ、衝撃的なことが起きたことは間違いないと思います。
私は期待半分、不安半分というのが本音です。
しかし、新政権が絶対多数に胡坐をかいて、国民の声を無視するようなことをすれば、また逆のこともおきる可能性は十分にありうることだと思います。
この結果を望んで投票した私たち有権者も同様の責任があり、新しく誕生する政権を注意深く見ていく必要があるような気がするのは私だけでしょうか。
高山手筒花火

秀吉に天下を獲らせた男は豊臣秀長だった!?
これは私の独自の解釈で考えたもので、歴史的事実といえるものではありませんが、こんな見方も面白いと思っていただければ幸いです。
豊臣秀長は、天文9年(1540年)、木下弥右衛門の二男として生まれました。幼少時に秀吉が家を飛び出したため、秀吉との面識は少ないと思われます。秀吉に仕え始めた正確な記述はなく、秀吉とおね(高台院)との婚礼(永禄7年(1564年))の後という説が一般的になっています。
また、秀長の前に義弟・浅野長政に家臣の話を持ちかけたという話もあります。
いずれにしろ、武士の心得を一切習っていなかった状態から、たった数年で秀吉のもっとも重要な相談相手になり、名実ともに秀吉に次ぐ地位まで登りつめたのは特異なことでしょう。
桶狭間の合戦の2年後、兄秀吉から請われ23歳で兄の片腕になった秀長。美濃攻めでは川並衆を、表裏なく義侠心に訴えて味方に付けます。
元亀元年(1570年)、朝倉義景討伐の最中に浅井久政・長政親子からの挟撃の報せを聞き、織田軍は退却を決定します。
秀吉が殿(しんがり)を勤めることになったことで、秀長は第一備えの大将に任命され、蜂須賀正勝・前野長康らと共に尽力します。
朝倉との戦いで裏切った浅井の攻撃から織田信長を無事に撤退させるため、殿を務めた秀吉隊は、秀長が美濃攻めのおり味方につけた川並衆の獅子奮迅の活躍で生き延びることができました(金ヶ崎の退き口)。
天正元年(1573年)、秀吉は浅井討伐の功により長浜城主となり、名を羽柴秀吉と改めました。秀長自身も時には城代を務める事もあり、この時期から長秀(のちに秀長と改名)の諱を使用し始めたと思われます。
諱の由来は、秀吉・秀長兄弟の味方であった丹羽長秀からという説が強いようです。
滅んだ浅井氏の近江領では暴動が起きますが、秀長は旧浅井の家臣を召し抱え平静を取り戻しました。数年後、秀長自身の右腕となる藤堂高虎が仕官します。この主従は秀長の養子である秀保が早世するまで続きます。
天正2年(1574年)、秀吉が越前一向一揆と対峙して出陣できなかったため、信長の命令で司令官として長島一向一揆討伐に出陣します(出典(『信長公記』)。
秀吉が信長の命令で中国方面総司令官となると、秀長は但馬平定の指揮を委ねられました。黒田孝高(官兵衛・如水)宛の秀吉直筆の手紙に信頼の代名詞として小一郎の名を出すなど、この時点で秀吉陣営の最重要の人物になっていたことは明らかです(出典黒田侯爵家文書)。
天正5年(1577年)に但馬竹田城が斎村政広によって落城すると、城代に任命されます。
しかし拠点としていた竹田城が裏切りで奪われてしまいます。この窮地を救ったのは近江で召し抱えた秀長の家臣藤堂高虎でした。
天正8年(1580年)、但馬出石城を落城させ、これにより但馬平定が完了します。秀長は出石城主となり、また但馬7郡10万5000石を治める大名にまでなります。また領地内にある生野銀山の管理にも携わることになりました。
ここまでは歴史的事実から秀長の功績を述べましたが、私は秀吉が天下を獲れたのは秀長がいたからこそ成し得たのではないかと考えています。
絵本太閤記や徳川実記はそれぞれ都合のいいことしか書かれていません。
それはそれで、歴史的価値があることを否定するつもりはありませんが、秀長の存在を意図的に否定している部分もあり、すべてを信用できるかというと疑問があります。
事実上の天下人になった秀吉時代の秀長を解明することで、私の独自の解釈が見当違いではないと思っていただけるかもしれません。
この続きは<日本の歴史を彩った女性たち>の続編を何回かはさんで掲載する予定とさせていただきます。
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4年前の「郵政選挙」とは間逆の結果です。
自公両党の大物議員が次々と落選し、民主党が308議席を獲得して政権移行が確実となりました。
政権与党の10年余の失政の結果とはいえ、衝撃的なことが起きたことは間違いないと思います。
私は期待半分、不安半分というのが本音です。
しかし、新政権が絶対多数に胡坐をかいて、国民の声を無視するようなことをすれば、また逆のこともおきる可能性は十分にありうることだと思います。
この結果を望んで投票した私たち有権者も同様の責任があり、新しく誕生する政権を注意深く見ていく必要があるような気がするのは私だけでしょうか。
高山手筒花火

秀吉に天下を獲らせた男は豊臣秀長だった!?
これは私の独自の解釈で考えたもので、歴史的事実といえるものではありませんが、こんな見方も面白いと思っていただければ幸いです。
豊臣秀長は、天文9年(1540年)、木下弥右衛門の二男として生まれました。幼少時に秀吉が家を飛び出したため、秀吉との面識は少ないと思われます。秀吉に仕え始めた正確な記述はなく、秀吉とおね(高台院)との婚礼(永禄7年(1564年))の後という説が一般的になっています。
また、秀長の前に義弟・浅野長政に家臣の話を持ちかけたという話もあります。
いずれにしろ、武士の心得を一切習っていなかった状態から、たった数年で秀吉のもっとも重要な相談相手になり、名実ともに秀吉に次ぐ地位まで登りつめたのは特異なことでしょう。
桶狭間の合戦の2年後、兄秀吉から請われ23歳で兄の片腕になった秀長。美濃攻めでは川並衆を、表裏なく義侠心に訴えて味方に付けます。
元亀元年(1570年)、朝倉義景討伐の最中に浅井久政・長政親子からの挟撃の報せを聞き、織田軍は退却を決定します。
秀吉が殿(しんがり)を勤めることになったことで、秀長は第一備えの大将に任命され、蜂須賀正勝・前野長康らと共に尽力します。
朝倉との戦いで裏切った浅井の攻撃から織田信長を無事に撤退させるため、殿を務めた秀吉隊は、秀長が美濃攻めのおり味方につけた川並衆の獅子奮迅の活躍で生き延びることができました(金ヶ崎の退き口)。
天正元年(1573年)、秀吉は浅井討伐の功により長浜城主となり、名を羽柴秀吉と改めました。秀長自身も時には城代を務める事もあり、この時期から長秀(のちに秀長と改名)の諱を使用し始めたと思われます。
諱の由来は、秀吉・秀長兄弟の味方であった丹羽長秀からという説が強いようです。
滅んだ浅井氏の近江領では暴動が起きますが、秀長は旧浅井の家臣を召し抱え平静を取り戻しました。数年後、秀長自身の右腕となる藤堂高虎が仕官します。この主従は秀長の養子である秀保が早世するまで続きます。
天正2年(1574年)、秀吉が越前一向一揆と対峙して出陣できなかったため、信長の命令で司令官として長島一向一揆討伐に出陣します(出典(『信長公記』)。
秀吉が信長の命令で中国方面総司令官となると、秀長は但馬平定の指揮を委ねられました。黒田孝高(官兵衛・如水)宛の秀吉直筆の手紙に信頼の代名詞として小一郎の名を出すなど、この時点で秀吉陣営の最重要の人物になっていたことは明らかです(出典黒田侯爵家文書)。
天正5年(1577年)に但馬竹田城が斎村政広によって落城すると、城代に任命されます。
しかし拠点としていた竹田城が裏切りで奪われてしまいます。この窮地を救ったのは近江で召し抱えた秀長の家臣藤堂高虎でした。
天正8年(1580年)、但馬出石城を落城させ、これにより但馬平定が完了します。秀長は出石城主となり、また但馬7郡10万5000石を治める大名にまでなります。また領地内にある生野銀山の管理にも携わることになりました。
ここまでは歴史的事実から秀長の功績を述べましたが、私は秀吉が天下を獲れたのは秀長がいたからこそ成し得たのではないかと考えています。
絵本太閤記や徳川実記はそれぞれ都合のいいことしか書かれていません。
それはそれで、歴史的価値があることを否定するつもりはありませんが、秀長の存在を意図的に否定している部分もあり、すべてを信用できるかというと疑問があります。
事実上の天下人になった秀吉時代の秀長を解明することで、私の独自の解釈が見当違いではないと思っていただけるかもしれません。
この続きは<日本の歴史を彩った女性たち>の続編を何回かはさんで掲載する予定とさせていただきます。
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