8月11日の誕生花
紅花 Safflower 花言葉は女の意地

パキスタキス・ルテア Pachystachys lutea(学名)
花言葉は美しい娘
8月11日の記念日
※ガンバレの日,スポーツ中継の日
1936(昭和11)年8月11日、ベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎ決勝で、日本の前畑秀子が優勝した。日本放送協会の河西三省アナウンサーによる「前畑がんばれ」と連呼した実況中継が日本中を沸かせたことを記念して、日本放送協会(NHK) はこの日を「がんばれの日、スポーツ中継の日」と定める。
○お寺の日8月10日~8月16日
ちょうどこの期間は旧盆と重なり、墓参りが多くなることもあり、「お寺の日」となっている。
8月11日の出来事
1945年終戦詔書の草案が完成した日。
終戦の詔書草案は昭和20年8月10日憲政記念館に所蔵。
鈴木貫太郎内閣の迫水久常書記官長は8月9日、内閣嘱託の川田瑞穂早稲田大学教授に対して、御前会議における天皇のお言葉を筆記したものを渡し、終戦の詔書草案の作成を依頼しました。
色々曲折はあったものの、川田は8月11日草案を完成させ内閣に提出。

川田の詔書草案は修正され、詔書案として1945年(昭和20)8月14日の閣議に提出され、翌日正午に放送されることになりました。
8月11日の出来事として、歴史的事実のみ記載してありますので、「終戦の詔書」そのものへの評価はしておりません。
みなさんそれぞれご自由に判断・評価してください。
終戦の詔書 (玉音)
朕(ちん)深く世界の大勢と帝國の現状とに鑑(かんが)み、非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、茲(ここ)に忠良なる爾(なんじ)臣民に告ぐ。
朕は帝國政府をして、米英支蘇四國に對し、其(そ)の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。抑々(そもそも)、帝國臣民の康(こう)寧(ねい)を圖(はか)り萬邦共栄の樂(たのしみ)を偕(とも)にするは、皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)の遺範(いはん)にして、朕の拳々(けんけん)措(お)かざる所、曩(さき)に米英二國に宣戦せる所以(ゆえん)も、亦(また)實に帝國の自存と東亞の安定とを庶幾(しょき)するに出て、他國の主權を排し領土を侵すが如きは、固(もと)より朕が志にあらず。
然るに、交戰巳(すで)に四歳を閲(けみ)し、朕が陸海将兵の勇戰、朕が百僚(ひゃくりょう)有司(ゆうし)の勵精、朕が一億衆庶(しゅうしょ)の奉公、各々最善を盡せるに拘(かかわ)らず、戰局必ずしも好轉せず、世界の大勢亦我に利あらず。
しかのみならず、敵は新(あらた)に残虐なる爆弾を使用して、頻(しきり)に無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶ所眞(しん)に測るべからざるに至る。
而(しか)も、尚交戰を継續せむか、終(つい)に我が民族の滅亡を招來するのみならず、延(ひい)て人類の文明をも破却すべし。
斯(かく)の如くむば、朕何を以てか億兆の赤子(せきし)を保し、皇祖皇宗の神靈に謝せむや。
是(こ)れ、朕が帝國政府をして共同宣言に應ぜしむるに至れる所以(ゆえん)なり。
朕は、帝國と共に、終始東亞の解放に協力せる諸盟邦に對し、遺憾の意を表せざるを得ず。
帝國臣民にして戰陣に死し、職域に殉じ、非命に 斃(たお)れたる者、及(および)、其の遺族に想(おもい)を致せば、五内(ごない)為に裂く。且(かつ)、戰傷を負ひ、災禍を蒙(こうむ)り、家業を失ひたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)する所なり。
惟(おも)ふに、今後帝國の受くべき苦難は、固(もと)より尋常にあらず。爾臣民の衷情(ちゅうじょう)も、朕善く之を知る。
然れども、朕は時運の趨(おもむ)く所、堪(た)え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て萬世の為に太平を開かんと欲す。
朕は、茲に國體を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し、常に爾臣民と共に在り。
若し夫(そ)れ、情の激する所、濫(みだり)に事端を滋(しげ)くし、或は、同胞排擠(はいさい)互に時局を亂(みだ)り、為に大道を誤り、信義を世界に失うが如きは、朕最も之を戒む。
宜しく擧國一家子孫相傳え、確(かた)く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念(おも)ひ、總力を將來の建設に傾け、道義を篤くし、志操を鞏(かた)くし、誓って國體の精華を發揚し、世界の進運に後(おく)れざらむことを期すべし。
爾臣民其れ克(よ)く朕が意を體せよ。
御 名 御 璽
昭和二十年八月十四日
上に書いた「終戦の詔書」を読んでも、何のことかよくわからない人もあるでしょう。
参考までに現代語訳を載せておきますが、訳文への異論はお断りしますのでご了承ください。
終戦の詔書(現代語訳)
私は世界の大勢と我が国の現状を深く考え、通常でない方法を使ってでも事態を収拾しなければならないと決意した。このことについて、忠実で善良な国民の諸君にお話ししようと思う。
私は政府に命じ、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4ケ国に対して、先にこの4ケ国の出した共同宣言の受け入れを通告させた。
もともと、国民が健康で安心して暮らせるように、また世界がともに繁栄していけるようにするというのは、天皇家が昔から掲げていた目標であり、私も常々努力していたことである。
先にアメリカ・イギリスに宣戦したのも、我が国が滅ばないように、また東アジアが安定するようにと思ってのことであり、決して他国の主権をそこない、領土を侵略しようと思ってやったことではない。
ところが、戦争はすでに4年目に入っている。その間私の陸海軍の将兵は勇敢に戦い、私の政府の官僚は懸命に働き、私の国民は国のために力をつくし、各々最善をつくしていたが、戦況は必ずしも好転していない。世界の大勢も我が国側に不利である。さらに敵は新たに残虐な爆弾を使って罪もない人々を多数殺傷し、戦争の惨害はまさにはかりしれないものになってきている。
このまま戦争を継続すれば、しまいには我々日本民族の滅亡を招くだけでなく、人類の文明そのものを破壊しつくしてしまうことになるだろう。このようにして国民を滅ぼしてしまっては、私は天皇家代々の先祖の神霊に決して許してもらえないに違いない。
これが私が政府に対しアメリカ・イギリスなどの共同宣言に応じるように命じた理由である。
私は我が国とともに東アジアの解放に協力してくれてきた同盟国諸国に対して申し訳ないと思う。また、我が国の国民で、戦場や職場で非命に死んだ者、またその遺族のことを思うと体が裂けるような思いである。さらに、戦争で傷つき、戦災を受け、家や職場を失った人々をどう助けていくかということも、私は深く案じている。
今後我が国の受ける苦難は並みたいていのものではないだろう。国民諸君の苦しみも私はよくわかっているつもりである。しかし時の運には逆らえない。私は耐えがたい敗戦の事実をあえて耐え忍び、将来のために平和な世の中を開こうと思う。
私はこうして国を滅ぼすことは避けることができた。私は今後も諸君の忠誠を信頼し、常に国民とともにあるつもりである。今後、感情にまかせてむやみに騒ぎをおこしたり、自国民同士で争いあったりすれば、国の将来をそこない、世界の信用を失ってしまうだろう。そのようなことは決してしてはならない。
これからは国をあげて、子孫を残し、神国日本が決して滅ばないという確信を持たねばならない。その責任は重く、道は遠いが、総力を将来の建設に傾けねばならない。人道と正義を重んじ、強固な精神を保たねばならない。そうすれば、日本の誇りを高く掲げつつ、世界の進歩について行くことができるであろう。国民諸君には、どうかこの私の願いを理解してもらいたいと思う。
解説
「國體を護持」とは、天皇制国家を維持すること。
「玉音」ぎよくおん、あるいはぎょくいん・・・右派学者の間で論争になっている。
私はどうでもいいようなことだと思っているのですが・・・・・・・
その他歴史的な出来事
1158年後白河天皇が上皇となって院政を開始
1338年足利尊氏が北朝から征夷大将軍に任ぜられる
1639年江戸城本丸が全焼
1688年松尾芭蕉が『更科紀行』の旅に出発
1707年「生類憐みの令」により、どじょう・うなぎ・鳥を扱う商売が禁止に
1919年ドイツで「ワイマール憲法」制定
1936年ベルリン五輪の女子200メートル平泳ぎで前畑秀子が優勝
1948年京阪神急行電鉄が、1945年から中止していた新京阪線(現在の阪急京都線)の梅田駅乗入れを再開
1965年帝人が膝上10cmのミニスカートを発売
母が着たミニスカートが今も残っています。
死んだ父は、母のミニスカート姿に一目ぼれしたと言っていました。
1979年中華人民共和国の『人民日報』が「ひとりっ子政策」推進の論文を掲載
著名人の誕生日;
1842年初代市川左團次[いちかわ・さだんじ1] (歌舞伎役者)[1904年8月7日歿]
1872年幣原喜重郎[しではら・きじゅうろう] (首相(44代),外相)[1951年3月10日歿]
1892年吉川英治[よしかわ・えいじ] (小説家『宮本武蔵』『私本太平記』)[1962年9月7日歿]
1904年袴田里見[はかまだ・さとみ] (共産党副委員長)[1990年5月10日歿]
1909年古関裕而[こせき・ゆうじ] (作曲家『長崎の鐘』『栄冠は君に輝く』)[1989年8月18日歿]
1920年山原健二郎[やまはら・けんじろう] (衆議院議員(共産党))[2004年3月8日歿]
1924年守住有信[もりずみ・ゆうしん] (参議院議員(自民党))[1999年11月14日歿]
1929年早坂暁[はやさか・あきら] (小説家,脚本家)
1972年小林綾子[こばやし・あやこ] (女優)
著名人の忌日
1626年ヌルハチ{Nurhaci}(奴児哈赤) (清の皇帝(初代),清朝を建国) <67歳>[1559年生]
1900年初代三遊亭圓朝[さんゆうてい・えんちょう1] (落語家『牡丹燈籠』) <61歳>[1839年4月1日生]
落語といえば笑いが求められるのに、怪談を高座にあげて聴衆を魅了した最初の落語家。
以後、歴代三遊亭圓朝は工夫をこらして、怪談話を高座にあげている。
1919年アンドリュー・カーネギー (米:実業家「鉄鋼王」) <83歳>[1835年11月25日生]
1956年ジャクソン・ポロック[ Jackson Pollock](米:画家) <44歳>[1912年1月28日生]
1983年山本薩夫[やまもと・さつお] (映画監督『戦争と人間』) <73歳>[1910年7月15日生]
社会派映画の第一人者。
ただいまランク急降下中

(↑ポチ
) (↑ポチ
)
紅花 Safflower 花言葉は女の意地

パキスタキス・ルテア Pachystachys lutea(学名)
花言葉は美しい娘
8月11日の記念日
※ガンバレの日,スポーツ中継の日
1936(昭和11)年8月11日、ベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎ決勝で、日本の前畑秀子が優勝した。日本放送協会の河西三省アナウンサーによる「前畑がんばれ」と連呼した実況中継が日本中を沸かせたことを記念して、日本放送協会(NHK) はこの日を「がんばれの日、スポーツ中継の日」と定める。
○お寺の日8月10日~8月16日
ちょうどこの期間は旧盆と重なり、墓参りが多くなることもあり、「お寺の日」となっている。
8月11日の出来事
1945年終戦詔書の草案が完成した日。
終戦の詔書草案は昭和20年8月10日憲政記念館に所蔵。
鈴木貫太郎内閣の迫水久常書記官長は8月9日、内閣嘱託の川田瑞穂早稲田大学教授に対して、御前会議における天皇のお言葉を筆記したものを渡し、終戦の詔書草案の作成を依頼しました。
色々曲折はあったものの、川田は8月11日草案を完成させ内閣に提出。

川田の詔書草案は修正され、詔書案として1945年(昭和20)8月14日の閣議に提出され、翌日正午に放送されることになりました。
8月11日の出来事として、歴史的事実のみ記載してありますので、「終戦の詔書」そのものへの評価はしておりません。
みなさんそれぞれご自由に判断・評価してください。
終戦の詔書 (玉音)
朕(ちん)深く世界の大勢と帝國の現状とに鑑(かんが)み、非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、茲(ここ)に忠良なる爾(なんじ)臣民に告ぐ。
朕は帝國政府をして、米英支蘇四國に對し、其(そ)の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。抑々(そもそも)、帝國臣民の康(こう)寧(ねい)を圖(はか)り萬邦共栄の樂(たのしみ)を偕(とも)にするは、皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)の遺範(いはん)にして、朕の拳々(けんけん)措(お)かざる所、曩(さき)に米英二國に宣戦せる所以(ゆえん)も、亦(また)實に帝國の自存と東亞の安定とを庶幾(しょき)するに出て、他國の主權を排し領土を侵すが如きは、固(もと)より朕が志にあらず。
然るに、交戰巳(すで)に四歳を閲(けみ)し、朕が陸海将兵の勇戰、朕が百僚(ひゃくりょう)有司(ゆうし)の勵精、朕が一億衆庶(しゅうしょ)の奉公、各々最善を盡せるに拘(かかわ)らず、戰局必ずしも好轉せず、世界の大勢亦我に利あらず。
しかのみならず、敵は新(あらた)に残虐なる爆弾を使用して、頻(しきり)に無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶ所眞(しん)に測るべからざるに至る。
而(しか)も、尚交戰を継續せむか、終(つい)に我が民族の滅亡を招來するのみならず、延(ひい)て人類の文明をも破却すべし。
斯(かく)の如くむば、朕何を以てか億兆の赤子(せきし)を保し、皇祖皇宗の神靈に謝せむや。
是(こ)れ、朕が帝國政府をして共同宣言に應ぜしむるに至れる所以(ゆえん)なり。
朕は、帝國と共に、終始東亞の解放に協力せる諸盟邦に對し、遺憾の意を表せざるを得ず。
帝國臣民にして戰陣に死し、職域に殉じ、非命に 斃(たお)れたる者、及(および)、其の遺族に想(おもい)を致せば、五内(ごない)為に裂く。且(かつ)、戰傷を負ひ、災禍を蒙(こうむ)り、家業を失ひたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)する所なり。
惟(おも)ふに、今後帝國の受くべき苦難は、固(もと)より尋常にあらず。爾臣民の衷情(ちゅうじょう)も、朕善く之を知る。
然れども、朕は時運の趨(おもむ)く所、堪(た)え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て萬世の為に太平を開かんと欲す。
朕は、茲に國體を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し、常に爾臣民と共に在り。
若し夫(そ)れ、情の激する所、濫(みだり)に事端を滋(しげ)くし、或は、同胞排擠(はいさい)互に時局を亂(みだ)り、為に大道を誤り、信義を世界に失うが如きは、朕最も之を戒む。
宜しく擧國一家子孫相傳え、確(かた)く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念(おも)ひ、總力を將來の建設に傾け、道義を篤くし、志操を鞏(かた)くし、誓って國體の精華を發揚し、世界の進運に後(おく)れざらむことを期すべし。
爾臣民其れ克(よ)く朕が意を體せよ。
御 名 御 璽
昭和二十年八月十四日
上に書いた「終戦の詔書」を読んでも、何のことかよくわからない人もあるでしょう。
参考までに現代語訳を載せておきますが、訳文への異論はお断りしますのでご了承ください。
終戦の詔書(現代語訳)
私は世界の大勢と我が国の現状を深く考え、通常でない方法を使ってでも事態を収拾しなければならないと決意した。このことについて、忠実で善良な国民の諸君にお話ししようと思う。
私は政府に命じ、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4ケ国に対して、先にこの4ケ国の出した共同宣言の受け入れを通告させた。
もともと、国民が健康で安心して暮らせるように、また世界がともに繁栄していけるようにするというのは、天皇家が昔から掲げていた目標であり、私も常々努力していたことである。
先にアメリカ・イギリスに宣戦したのも、我が国が滅ばないように、また東アジアが安定するようにと思ってのことであり、決して他国の主権をそこない、領土を侵略しようと思ってやったことではない。
ところが、戦争はすでに4年目に入っている。その間私の陸海軍の将兵は勇敢に戦い、私の政府の官僚は懸命に働き、私の国民は国のために力をつくし、各々最善をつくしていたが、戦況は必ずしも好転していない。世界の大勢も我が国側に不利である。さらに敵は新たに残虐な爆弾を使って罪もない人々を多数殺傷し、戦争の惨害はまさにはかりしれないものになってきている。
このまま戦争を継続すれば、しまいには我々日本民族の滅亡を招くだけでなく、人類の文明そのものを破壊しつくしてしまうことになるだろう。このようにして国民を滅ぼしてしまっては、私は天皇家代々の先祖の神霊に決して許してもらえないに違いない。
これが私が政府に対しアメリカ・イギリスなどの共同宣言に応じるように命じた理由である。
私は我が国とともに東アジアの解放に協力してくれてきた同盟国諸国に対して申し訳ないと思う。また、我が国の国民で、戦場や職場で非命に死んだ者、またその遺族のことを思うと体が裂けるような思いである。さらに、戦争で傷つき、戦災を受け、家や職場を失った人々をどう助けていくかということも、私は深く案じている。
今後我が国の受ける苦難は並みたいていのものではないだろう。国民諸君の苦しみも私はよくわかっているつもりである。しかし時の運には逆らえない。私は耐えがたい敗戦の事実をあえて耐え忍び、将来のために平和な世の中を開こうと思う。
私はこうして国を滅ぼすことは避けることができた。私は今後も諸君の忠誠を信頼し、常に国民とともにあるつもりである。今後、感情にまかせてむやみに騒ぎをおこしたり、自国民同士で争いあったりすれば、国の将来をそこない、世界の信用を失ってしまうだろう。そのようなことは決してしてはならない。
これからは国をあげて、子孫を残し、神国日本が決して滅ばないという確信を持たねばならない。その責任は重く、道は遠いが、総力を将来の建設に傾けねばならない。人道と正義を重んじ、強固な精神を保たねばならない。そうすれば、日本の誇りを高く掲げつつ、世界の進歩について行くことができるであろう。国民諸君には、どうかこの私の願いを理解してもらいたいと思う。
解説
「國體を護持」とは、天皇制国家を維持すること。
「玉音」ぎよくおん、あるいはぎょくいん・・・右派学者の間で論争になっている。
私はどうでもいいようなことだと思っているのですが・・・・・・・
その他歴史的な出来事
1158年後白河天皇が上皇となって院政を開始
1338年足利尊氏が北朝から征夷大将軍に任ぜられる
1639年江戸城本丸が全焼
1688年松尾芭蕉が『更科紀行』の旅に出発
1707年「生類憐みの令」により、どじょう・うなぎ・鳥を扱う商売が禁止に
1919年ドイツで「ワイマール憲法」制定
1936年ベルリン五輪の女子200メートル平泳ぎで前畑秀子が優勝
1948年京阪神急行電鉄が、1945年から中止していた新京阪線(現在の阪急京都線)の梅田駅乗入れを再開
1965年帝人が膝上10cmのミニスカートを発売
母が着たミニスカートが今も残っています。
死んだ父は、母のミニスカート姿に一目ぼれしたと言っていました。
1979年中華人民共和国の『人民日報』が「ひとりっ子政策」推進の論文を掲載
著名人の誕生日;
1842年初代市川左團次[いちかわ・さだんじ1] (歌舞伎役者)[1904年8月7日歿]
1872年幣原喜重郎[しではら・きじゅうろう] (首相(44代),外相)[1951年3月10日歿]
1892年吉川英治[よしかわ・えいじ] (小説家『宮本武蔵』『私本太平記』)[1962年9月7日歿]
1904年袴田里見[はかまだ・さとみ] (共産党副委員長)[1990年5月10日歿]
1909年古関裕而[こせき・ゆうじ] (作曲家『長崎の鐘』『栄冠は君に輝く』)[1989年8月18日歿]
1920年山原健二郎[やまはら・けんじろう] (衆議院議員(共産党))[2004年3月8日歿]
1924年守住有信[もりずみ・ゆうしん] (参議院議員(自民党))[1999年11月14日歿]
1929年早坂暁[はやさか・あきら] (小説家,脚本家)
1972年小林綾子[こばやし・あやこ] (女優)
著名人の忌日
1626年ヌルハチ{Nurhaci}(奴児哈赤) (清の皇帝(初代),清朝を建国) <67歳>[1559年生]
1900年初代三遊亭圓朝[さんゆうてい・えんちょう1] (落語家『牡丹燈籠』) <61歳>[1839年4月1日生]
落語といえば笑いが求められるのに、怪談を高座にあげて聴衆を魅了した最初の落語家。
以後、歴代三遊亭圓朝は工夫をこらして、怪談話を高座にあげている。
1919年アンドリュー・カーネギー (米:実業家「鉄鋼王」) <83歳>[1835年11月25日生]
1956年ジャクソン・ポロック[ Jackson Pollock](米:画家) <44歳>[1912年1月28日生]
1983年山本薩夫[やまもと・さつお] (映画監督『戦争と人間』) <73歳>[1910年7月15日生]
社会派映画の第一人者。
ただいまランク急降下中


(↑ポチ


スポンサーサイト
テーマ:みんなに紹介したいこと - ジャンル:ブログ