この一輪の花の名は「露草」、今の時期にぴったりのような・・・・

今が旬の花・・・・

久しぶりに金子みすゞの詩を紹介します。
みなさん、それぞれ自由に解釈してくださればいいと思います。
雨のあと
日かげの葉っぱはなきむしだ、
ほろりほろりとないている。
日かげの葉っぱはわらいだす、
なみだのあとがもうかわく。
日かげの葉っぱのなきむしに、
たれか、ハンカチかしてやれ。
中山道史跡の旅(近江路)
鳥居本から彦根市小野の集落を通り抜け、近江鉄道の踏み切りまでくると、高宮宿になります。
木曽街道高宮(歌川広重作)

高宮宿は、人工密度の大きい宿場で、宿高2923石、町並み7町16間、天保14年の人口
3560人、家数835軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋23軒があったとされています。
高宮宿は、高宮布の集散地として、問屋や小売店が軒を並べていたと伝えられます。
高宮布は、近江上布とも称される麻布で、細糸で織った質のよい高級品として珍重され、古くは
近江の守護、佐々木氏が足利幕府にも献上したといわれています。
高宮宿の馬場家をはじめ隣接する豊郷の集落では、藤野家、後の「丸紅・伊藤忠」の創始者とな
った伊藤家など豪商を輩出しました。
高宮宿の入口 高宮宿街並み

同じく高宮宿街並み

本陣跡(道筋に見られます。) 円照寺(一般公開はされていません。)

円照寺境内には、徳川家康が大阪の陣、出陣の際に休息したという腰懸石があります。
「芭蕉の紙子塚」(道筋に見られます。)
俳人、松尾芭蕉は高宮の小林家で一泊し、自分の横臥している姿の画を描いて「たのむぞよ寝
酒なき夜の古紙子」という句を作ったそうです。
小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、後に庭に塚を作り、古い紙子を収め「紙子塚」と名づけ
たと伝えられています。
高宮宿芭蕉の紙子塚

「多賀大社の大鳥居」(街道筋に見られます)
表参道口に建つ多賀大社の一の鳥居。滋賀県指定文化財。寛永12年(1635)の建立で、高さ
約11メートル、柱間約8メートルあり、滋賀県最大級の鳥居です。鳥居の横に常夜灯と、多賀へ
の道標「是より多賀みち三十丁」と刻まれた石柱がありました。
多賀大社鳥居

高宮神社(一般公開されていません)

高宮宿を出て、愛知川宿に向かいましたが、高宮宿の境は、犬上(いぬかみ)川までです。
川に架かる橋は高宮橋といいますが、江戸時代には 無賃橋(むちんはし)と呼ばれました。
無賃橋

「無賃橋」の由来を説明する案内板が立てられていて、「彦根藩は、この地の豪商・藤野四郎兵
衛、小林吟右衛門、馬場利左衛門らに命じ、橋の費用を広く一般の人々から募らせ、橋をかけさ
せた。江戸時代には川渡しや仮橋利用の際、お金をとられたが、このようにして架けられたの
で、この橋の通行は無料だった」と書かれています。
江戸時代の旅人にとって、橋の通行料がいらないことで大助かりしたようです。
木曽街道恵智川(歌川広重作)

愛知川宿は、記録によれば天保年間には本陣1、脇本陣1、旅篭が28軒、問屋が3軒で、宿内
人口は922人 で、中規模の宿場町だったようです。
「中山道愛知川宿のアーチ」
街道の頭上に中山道愛知川宿と書かれた、冠木門形のアーチが掛かっていました。
「八幡神社前の高札場跡碑」
八幡神社の石灯篭の左脇に高札場の標石があります。(小さいので見落としそう)
愛知川宿口 愛知川宿高札場跡

「脇本陣跡」
脇本陣は洋風の建てもので、江戸時代の雰囲気はありません。
「問屋場跡」
路肩に『問屋跡』の標石が立っていましたが、友人が気がつかなければ見落とすところでした。
愛知川脇本陣跡 愛知川問屋場跡

「明治天皇御聖跡碑が立つ竹平楼」
宿の外れ近くに、黒板塀門構えの屋敷があり、玄関脇に『明治天皇御聖跡』の大きな碑が立って
いるのが料理旅館竹平楼。江戸時代は愛知川一の旅籠「竹の子屋」でした。
中には明治11年(1878)御小休のときの玉座が残されているといいます。
旅籠竹の子屋(現料亭竹平楼)

「愛知川宿出口にあるアーチ」
宿場はずれに『中山道愛知川宿』のアーチがあり、ここで宿が終わりました。
愛知川西方見附

アーチを抜けて、国道8号線と合流してから次の武佐宿まで二里半(10km)の道のりです。
武佐宿から大津宿までは、また写真の確認に出向いてきます。

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今が旬の花・・・・

久しぶりに金子みすゞの詩を紹介します。
みなさん、それぞれ自由に解釈してくださればいいと思います。
雨のあと
日かげの葉っぱはなきむしだ、
ほろりほろりとないている。
日かげの葉っぱはわらいだす、
なみだのあとがもうかわく。
日かげの葉っぱのなきむしに、
たれか、ハンカチかしてやれ。
中山道史跡の旅(近江路)
鳥居本から彦根市小野の集落を通り抜け、近江鉄道の踏み切りまでくると、高宮宿になります。
木曽街道高宮(歌川広重作)

高宮宿は、人工密度の大きい宿場で、宿高2923石、町並み7町16間、天保14年の人口
3560人、家数835軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋23軒があったとされています。
高宮宿は、高宮布の集散地として、問屋や小売店が軒を並べていたと伝えられます。
高宮布は、近江上布とも称される麻布で、細糸で織った質のよい高級品として珍重され、古くは
近江の守護、佐々木氏が足利幕府にも献上したといわれています。
高宮宿の馬場家をはじめ隣接する豊郷の集落では、藤野家、後の「丸紅・伊藤忠」の創始者とな
った伊藤家など豪商を輩出しました。
高宮宿の入口 高宮宿街並み


同じく高宮宿街並み


本陣跡(道筋に見られます。) 円照寺(一般公開はされていません。)


円照寺境内には、徳川家康が大阪の陣、出陣の際に休息したという腰懸石があります。
「芭蕉の紙子塚」(道筋に見られます。)
俳人、松尾芭蕉は高宮の小林家で一泊し、自分の横臥している姿の画を描いて「たのむぞよ寝
酒なき夜の古紙子」という句を作ったそうです。
小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、後に庭に塚を作り、古い紙子を収め「紙子塚」と名づけ
たと伝えられています。
高宮宿芭蕉の紙子塚

「多賀大社の大鳥居」(街道筋に見られます)
表参道口に建つ多賀大社の一の鳥居。滋賀県指定文化財。寛永12年(1635)の建立で、高さ
約11メートル、柱間約8メートルあり、滋賀県最大級の鳥居です。鳥居の横に常夜灯と、多賀へ
の道標「是より多賀みち三十丁」と刻まれた石柱がありました。
多賀大社鳥居

高宮神社(一般公開されていません)

高宮宿を出て、愛知川宿に向かいましたが、高宮宿の境は、犬上(いぬかみ)川までです。
川に架かる橋は高宮橋といいますが、江戸時代には 無賃橋(むちんはし)と呼ばれました。
無賃橋

「無賃橋」の由来を説明する案内板が立てられていて、「彦根藩は、この地の豪商・藤野四郎兵
衛、小林吟右衛門、馬場利左衛門らに命じ、橋の費用を広く一般の人々から募らせ、橋をかけさ
せた。江戸時代には川渡しや仮橋利用の際、お金をとられたが、このようにして架けられたの
で、この橋の通行は無料だった」と書かれています。
江戸時代の旅人にとって、橋の通行料がいらないことで大助かりしたようです。
木曽街道恵智川(歌川広重作)

愛知川宿は、記録によれば天保年間には本陣1、脇本陣1、旅篭が28軒、問屋が3軒で、宿内
人口は922人 で、中規模の宿場町だったようです。
「中山道愛知川宿のアーチ」
街道の頭上に中山道愛知川宿と書かれた、冠木門形のアーチが掛かっていました。
「八幡神社前の高札場跡碑」
八幡神社の石灯篭の左脇に高札場の標石があります。(小さいので見落としそう)
愛知川宿口 愛知川宿高札場跡


「脇本陣跡」
脇本陣は洋風の建てもので、江戸時代の雰囲気はありません。
「問屋場跡」
路肩に『問屋跡』の標石が立っていましたが、友人が気がつかなければ見落とすところでした。
愛知川脇本陣跡 愛知川問屋場跡


「明治天皇御聖跡碑が立つ竹平楼」
宿の外れ近くに、黒板塀門構えの屋敷があり、玄関脇に『明治天皇御聖跡』の大きな碑が立って
いるのが料理旅館竹平楼。江戸時代は愛知川一の旅籠「竹の子屋」でした。
中には明治11年(1878)御小休のときの玉座が残されているといいます。
旅籠竹の子屋(現料亭竹平楼)

「愛知川宿出口にあるアーチ」
宿場はずれに『中山道愛知川宿』のアーチがあり、ここで宿が終わりました。
愛知川西方見附

アーチを抜けて、国道8号線と合流してから次の武佐宿まで二里半(10km)の道のりです。
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うっとおしい日がつづいています。いよいよ梅雨の時期がくるような予感。
この時期を詠んだ金子みすゞの詩を紹介します。
[つ ゆ]
だれにもいわずにおきましょう。
朝のお庭のすみっこで、
花がほろりとないたこと。
もしもうわさがひろがって
はちのお耳へはいったら、
わるいことでもしたように、
みつをかえしにゆくでしょう。
今日は自慢できるものの紹介をさせていただきます。
薄墨桜も自慢の1つですが、私の家のすぐ近くを流れている根尾川は自然をしっかり残しています。
大雨が降るとあばれ川に変貌して、ひどいときは川沿いの国道も当然通行止めになりますが、普段は清流そのもので、アユ、川マス、支流に行けばアマゴ釣りなどができ、釣り人がおしかけます。
峠越えをすると悪名高い日本最大の徳山ダム(貯水量は日本一とか)がありますが、根尾川はまがりなりにも揖斐川に合流するまでダム(小さな堰はある)はありません。
徳山ダムの水が余るので、長良川にむりやり水を送る工事をするって、ほんと「水余りで金だけかける無駄な事業」と名古屋市長も言ってました。
ついぼやいてしまったけど、根尾川は当分大丈夫かな。
根尾川最上流 近くの根尾川

根尾川温見付近 根尾川中流

わが故郷、飛騨高山の大八賀川に決してひけをとらないいいところです。
もちろん山の中ですから温泉もあります(これは飛騨に負けます)。
今日のお気に入りの花
一輪だけ咲きました(名前不明です。誰か教えてください)

誰でもわかる満開のサツキ3種類(葉の形も違います)



戦国時代の女性たち
淀殿(自ら招いた豊臣家滅亡)
淀殿と称された茶々は、北近江を支配していた小谷城主浅井長政と信長の妹・お市の長女として、1567(永禄十)年に生まれました。
茶々が7歳の時に小谷城の落城という悲劇にあい、母お市と2人の妹たちとともに信長方に送られた。父長政と祖父久政は自刃、別に逃がされた嫡男の万福丸は信長の命で串刺しの刑、祖母小野殿も処刑されました。信長保護下で母・妹らとともに尾張・美濃などで9年を過ごしたのち、本能寺の変で信長が非業の最期をとげた後の信雄・信孝兄弟や重臣たちの権力争い(清洲会議)によって、母お市が柴田勝家の妻となることになり、茶々たち3人の姉妹はお市に従って越前北ノ庄城に移りました。しかし安寧は長続きせず、柴田勝家は1583年、信長3男信孝とともに羽柴秀吉への戦いをしかけました。すべてに優る秀吉軍の前に柴田勝家は惨敗し、越前北ノ庄に逃亡しますが、結局城を取り囲まれ、炎の中、お市とともに自刃して果てました。茶々たち3人の姉妹は、義父勝家を自刃に追い込んだ秀吉に保護されたのです。茶々16歳のときでした。

秀吉は父母の仇ですが、彼女たちはその援助を受けて生きていかなければなりません。茶々は嘆き悲しむことをせず、秀吉を利用することを考えて、以後自らの境遇を耐えていきます。秀吉は成長する茶々に、かつてあこがれたお市の面影をみるようになりました。秀吉は年の差も気にせず、お市に似ている茶々を周囲の反対を押し切って側室にしようとしました。茶々は当初、秀吉を嫌っていましたが、戦国の女は仇敵の側室になることは珍しくないことを悟り、1588(天正十六)年茶々(淀殿)は複雑な思いを抱きながらも、秀吉の側室になりました。茶々22歳、秀吉52歳のことでした。まもなく茶々は懐妊し、秀吉から出産のため京都淀城をあてがわれます。
鶴丸を出産したことで、秀吉の野望と茶々の傲慢ぶりが表面化していきます。豊臣家臣たちも茶々を淀殿と呼ぶようになり、茶々の増長はますますひどくなっていきました。しかし、鶴丸はわずか3歳で病死しました。秀吉は弟秀長の再三の忠告を聞き入れず、また1591年に秀長が死ぬと、ブレーキのきかなくなった秀吉と茶々(淀殿)は側近も近江出身者ばかりに替えていきます。その後、1592(文禄元)年、大阪城二ノ丸でお拾い(のちの秀頼)を生みました。於寧をはじめ、ほかの側室にも子はいませんでしたから、茶々(淀殿)は側室筆頭の位置を占めたわけです。その分秀吉の溺愛も厚かったものとみられます。
1598(慶長三)年秀吉が62歳で他界すると、その遺言により茶々と秀頼が大坂城に移ってきました。於寧が大坂城を去ってからは、大坂城の実権は、事実上淀殿が握ることとなりました。淀殿は、まだ6歳だった後継ぎの秀頼を伴い、大坂城本丸に入城、そのことで大坂の女城主的な地位に登りつめたと錯覚したのかもしれません。残念ながら武断派の大名達とはもともと疎遠であり、家康の策略にも冷静さを欠き、神仏への崇拝から散財をし、また感情的で名門出身という誇りにしがみついたことが、豊臣家滅亡の引き金となったことは否めません。
秀吉の子だからといって、必ずしも秀吉と同じように天下人になれる器量があるとは限りません。淀殿にはそうしたことに気付く冷静さがなく、世の中の動きすらも見えず、側近の石田光成を筆頭とする近江出身の家臣の讒言を信用しすぎました。一方で、残された淀殿の書状には、確かな教養の手応えが感じられるものがあるもといわれています。、また、寂しい晩年を送っていた信長の側室おなべの方に同情する情け深さもみせています。その後の関ケ原の戦い、大坂冬の陣、豊臣家滅亡の瞬間である大坂夏の陣と、いずれも淀殿が自ら招いた結果と言っても過言ではありません。もう少し聞く耳を持っていたら、少なくとも豊臣家はこの時点で滅亡することはなかったのではないでしょうか。
結果、淀殿は大坂城に火を放ち、秀頼も自刃して果てるという結末を迎えることになりました。淀殿49歳、秀頼はまだ23歳の若さでした。
井上靖著「淀殿日記」をあたかも史実のように信じている人もいますが、歴史的事実はそんなに美しいものではありません。
いかに時代に翻弄されたとはいえ、栄耀栄華におぼれた淀殿は、2人の妹たちと比べるとあまりにも傲慢すぎました。前々回にとりあげた築山殿と比較しても、悲劇の女性とは言い難いものがあります。
中山道史跡めぐりの旅は、美濃河渡宿(54番目)から近江武佐宿(66番目)までを駆け足でめぐるもので、ゆっくりと散策できるものではありませんでした。
できれば隠れた名所・旧跡なども訪ねたかったのですが、一泊では無理でした。
やはり、1日2~3ケ所が一番いいペースだと感じました。
なお、中山道史跡めぐりの記事は、『戦国時代の女性たち』の終了後に順次掲載していく予定です。
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[つ ゆ]
だれにもいわずにおきましょう。
朝のお庭のすみっこで、
花がほろりとないたこと。
もしもうわさがひろがって
はちのお耳へはいったら、
わるいことでもしたように、
みつをかえしにゆくでしょう。
今日は自慢できるものの紹介をさせていただきます。
薄墨桜も自慢の1つですが、私の家のすぐ近くを流れている根尾川は自然をしっかり残しています。
大雨が降るとあばれ川に変貌して、ひどいときは川沿いの国道も当然通行止めになりますが、普段は清流そのもので、アユ、川マス、支流に行けばアマゴ釣りなどができ、釣り人がおしかけます。
峠越えをすると悪名高い日本最大の徳山ダム(貯水量は日本一とか)がありますが、根尾川はまがりなりにも揖斐川に合流するまでダム(小さな堰はある)はありません。
徳山ダムの水が余るので、長良川にむりやり水を送る工事をするって、ほんと「水余りで金だけかける無駄な事業」と名古屋市長も言ってました。
ついぼやいてしまったけど、根尾川は当分大丈夫かな。
根尾川最上流 近くの根尾川


根尾川温見付近 根尾川中流


わが故郷、飛騨高山の大八賀川に決してひけをとらないいいところです。
もちろん山の中ですから温泉もあります(これは飛騨に負けます)。
今日のお気に入りの花
一輪だけ咲きました(名前不明です。誰か教えてください)

誰でもわかる満開のサツキ3種類(葉の形も違います)



戦国時代の女性たち
淀殿(自ら招いた豊臣家滅亡)
淀殿と称された茶々は、北近江を支配していた小谷城主浅井長政と信長の妹・お市の長女として、1567(永禄十)年に生まれました。
茶々が7歳の時に小谷城の落城という悲劇にあい、母お市と2人の妹たちとともに信長方に送られた。父長政と祖父久政は自刃、別に逃がされた嫡男の万福丸は信長の命で串刺しの刑、祖母小野殿も処刑されました。信長保護下で母・妹らとともに尾張・美濃などで9年を過ごしたのち、本能寺の変で信長が非業の最期をとげた後の信雄・信孝兄弟や重臣たちの権力争い(清洲会議)によって、母お市が柴田勝家の妻となることになり、茶々たち3人の姉妹はお市に従って越前北ノ庄城に移りました。しかし安寧は長続きせず、柴田勝家は1583年、信長3男信孝とともに羽柴秀吉への戦いをしかけました。すべてに優る秀吉軍の前に柴田勝家は惨敗し、越前北ノ庄に逃亡しますが、結局城を取り囲まれ、炎の中、お市とともに自刃して果てました。茶々たち3人の姉妹は、義父勝家を自刃に追い込んだ秀吉に保護されたのです。茶々16歳のときでした。

秀吉は父母の仇ですが、彼女たちはその援助を受けて生きていかなければなりません。茶々は嘆き悲しむことをせず、秀吉を利用することを考えて、以後自らの境遇を耐えていきます。秀吉は成長する茶々に、かつてあこがれたお市の面影をみるようになりました。秀吉は年の差も気にせず、お市に似ている茶々を周囲の反対を押し切って側室にしようとしました。茶々は当初、秀吉を嫌っていましたが、戦国の女は仇敵の側室になることは珍しくないことを悟り、1588(天正十六)年茶々(淀殿)は複雑な思いを抱きながらも、秀吉の側室になりました。茶々22歳、秀吉52歳のことでした。まもなく茶々は懐妊し、秀吉から出産のため京都淀城をあてがわれます。
鶴丸を出産したことで、秀吉の野望と茶々の傲慢ぶりが表面化していきます。豊臣家臣たちも茶々を淀殿と呼ぶようになり、茶々の増長はますますひどくなっていきました。しかし、鶴丸はわずか3歳で病死しました。秀吉は弟秀長の再三の忠告を聞き入れず、また1591年に秀長が死ぬと、ブレーキのきかなくなった秀吉と茶々(淀殿)は側近も近江出身者ばかりに替えていきます。その後、1592(文禄元)年、大阪城二ノ丸でお拾い(のちの秀頼)を生みました。於寧をはじめ、ほかの側室にも子はいませんでしたから、茶々(淀殿)は側室筆頭の位置を占めたわけです。その分秀吉の溺愛も厚かったものとみられます。
1598(慶長三)年秀吉が62歳で他界すると、その遺言により茶々と秀頼が大坂城に移ってきました。於寧が大坂城を去ってからは、大坂城の実権は、事実上淀殿が握ることとなりました。淀殿は、まだ6歳だった後継ぎの秀頼を伴い、大坂城本丸に入城、そのことで大坂の女城主的な地位に登りつめたと錯覚したのかもしれません。残念ながら武断派の大名達とはもともと疎遠であり、家康の策略にも冷静さを欠き、神仏への崇拝から散財をし、また感情的で名門出身という誇りにしがみついたことが、豊臣家滅亡の引き金となったことは否めません。
秀吉の子だからといって、必ずしも秀吉と同じように天下人になれる器量があるとは限りません。淀殿にはそうしたことに気付く冷静さがなく、世の中の動きすらも見えず、側近の石田光成を筆頭とする近江出身の家臣の讒言を信用しすぎました。一方で、残された淀殿の書状には、確かな教養の手応えが感じられるものがあるもといわれています。、また、寂しい晩年を送っていた信長の側室おなべの方に同情する情け深さもみせています。その後の関ケ原の戦い、大坂冬の陣、豊臣家滅亡の瞬間である大坂夏の陣と、いずれも淀殿が自ら招いた結果と言っても過言ではありません。もう少し聞く耳を持っていたら、少なくとも豊臣家はこの時点で滅亡することはなかったのではないでしょうか。
結果、淀殿は大坂城に火を放ち、秀頼も自刃して果てるという結末を迎えることになりました。淀殿49歳、秀頼はまだ23歳の若さでした。
井上靖著「淀殿日記」をあたかも史実のように信じている人もいますが、歴史的事実はそんなに美しいものではありません。
いかに時代に翻弄されたとはいえ、栄耀栄華におぼれた淀殿は、2人の妹たちと比べるとあまりにも傲慢すぎました。前々回にとりあげた築山殿と比較しても、悲劇の女性とは言い難いものがあります。
中山道史跡めぐりの旅は、美濃河渡宿(54番目)から近江武佐宿(66番目)までを駆け足でめぐるもので、ゆっくりと散策できるものではありませんでした。
できれば隠れた名所・旧跡なども訪ねたかったのですが、一泊では無理でした。
やはり、1日2~3ケ所が一番いいペースだと感じました。
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夏が近づいてきた今日この頃、我が家と裏山の境にはまだ春の名残りがありました。
いまにも飛んでゆきそうなたんぽぽの穂。
花が咲いている隣では、穂に変わって旅立つ準備のたんぽぽ。
降りだした雨があがると、どこか違うところに風に運ばれていくさだめが待っています。


裏庭にどくだみの花がちらほら、あまりにも可憐なのでパチリと!

病院で血液検査をして、先生に言われたことは「γ-GTPが高い」って、早い話がお酒の飲み過ぎってこと?
先生曰く「marihimeさんは貧血はやむを得ないけど、γ-GTPのことはダメですね」。
私、「言われなくてもわかってます」って口から出そうになったけど、だんまりで帰ってきました。
みなさん、体調が悪いときは気をつけましょうね。
前回に続いて小林一茶の俳句を紹介します。
少し軽妙で、風刺や皮肉も含み、自然と笑いがこみ上げてくる句です。
江戸時代中期の世相を反映して、民衆の内に秘めたお上への不満が表現されていると思います。
一茶の心意気ここにありと思わせます。
あらかじめお断りしておきますが、私が解説をつけている部分は、一茶がこう思っていたのではないかという勝手な解釈です。
柳から ももんぐわあと 出る子かな (やなぎから ももんぐわあと でるこかな)
[子どもらは柳のかげから驚かせようとしたのかなあ、びっくりしたふりでもしようかな]
春風や 侍二人 犬の供 (はるかぜや さむらひふたり いぬのとも)
[いくら春とはいえ、お犬様のお散歩に侍2人がついてくとは世も末だよ]
侍や 鴬にまで つかはるる (さむらひや うぐひすにまで つかはるる)
[よほど大事な鶯らしいけど、お侍も大変だねー]
鴬や 殿より先へ 朝御飯 (うぐひすや とのよりさきに あさごはん)
[殿様の鴬ともなると、えさまで先に食べさせるのかい]
みなさんからご意見をお寄せくださると、管理人は飛び上がって喜びます。
今日の金子みすゞの詩の紹介
土
こっつん こっつんぶたれる土は
よいはたけになってよい麦うむよ。
朝からばんまでふまれる土は
よいみちになって車を通すよ。
ぶたれぬ土は
ふまれぬ土は
いらない土か。
いえいえそれは
名のない草のおやどをするよ。
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いまにも飛んでゆきそうなたんぽぽの穂。
花が咲いている隣では、穂に変わって旅立つ準備のたんぽぽ。
降りだした雨があがると、どこか違うところに風に運ばれていくさだめが待っています。


裏庭にどくだみの花がちらほら、あまりにも可憐なのでパチリと!

病院で血液検査をして、先生に言われたことは「γ-GTPが高い」って、早い話がお酒の飲み過ぎってこと?
先生曰く「marihimeさんは貧血はやむを得ないけど、γ-GTPのことはダメですね」。
私、「言われなくてもわかってます」って口から出そうになったけど、だんまりで帰ってきました。
みなさん、体調が悪いときは気をつけましょうね。
前回に続いて小林一茶の俳句を紹介します。
少し軽妙で、風刺や皮肉も含み、自然と笑いがこみ上げてくる句です。
江戸時代中期の世相を反映して、民衆の内に秘めたお上への不満が表現されていると思います。
一茶の心意気ここにありと思わせます。
あらかじめお断りしておきますが、私が解説をつけている部分は、一茶がこう思っていたのではないかという勝手な解釈です。
柳から ももんぐわあと 出る子かな (やなぎから ももんぐわあと でるこかな)
[子どもらは柳のかげから驚かせようとしたのかなあ、びっくりしたふりでもしようかな]
春風や 侍二人 犬の供 (はるかぜや さむらひふたり いぬのとも)
[いくら春とはいえ、お犬様のお散歩に侍2人がついてくとは世も末だよ]
侍や 鴬にまで つかはるる (さむらひや うぐひすにまで つかはるる)
[よほど大事な鶯らしいけど、お侍も大変だねー]
鴬や 殿より先へ 朝御飯 (うぐひすや とのよりさきに あさごはん)
[殿様の鴬ともなると、えさまで先に食べさせるのかい]
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今日の金子みすゞの詩の紹介
土
こっつん こっつんぶたれる土は
よいはたけになってよい麦うむよ。
朝からばんまでふまれる土は
よいみちになって車を通すよ。
ぶたれぬ土は
ふまれぬ土は
いらない土か。
いえいえそれは
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今日とりあげる金子みすゞの詩の中に、どういうわけか「花よりだんご」が出てきます。
今日の歴史と文化のテーマに「小林一茶」をとりあげますが、一茶の俳句の中にも「花よりだんご」
が出てきます。
日本の文化にはどこか共通するものがあるのかもしれません。
いろはかるた
ふときく声は、子どもの声は、
「はなよりだんご、はの字だよ。」
小雨、ぬか雨、ふるなかを、
にいさんむかえにゆくみちよ。
みかえりゃ、雨戸がしまってて、
それでもあかりはこぼれてた。
「いいかい、おつぎは・・・・・・。」
あるきだす、向こうのむこうが暗いこと。
庭のサツキの中でも少し変わった花弁のサツキです。

曽根城公園の菖蒲がいよいよいっせいに咲き、観光客もどっと押し寄せそうです。

今日は江戸中期俳諧の巨匠小林一茶の俳句と生涯についてふれたいと思います。
松尾芭蕉や与謝蕪村をご存じの方は、当然小林一茶のことも聞いた覚えがあると思います。
私は、松尾芭蕉は自然そのものを詠い、小林一茶は人間を詠ったような想いがします。
好き嫌いは当然ありますが、私が好きなのは小林一茶の方です。
そこで小林一茶の代表的な俳句を紹介して、みなさんから率直なご意見を寄せていただけたらと思います。
私の勝手な解釈をそれぞれの句の下に記しますが、みなさんも一茶の気持ちになって独自の解釈をされてはいかがかと思います。
陽炎や 手に下駄はいて 善光寺 (かげろふや てにげたはいて ぜんくわうじ)
[善光寺はありがたいお寺だから、はじめから最敬礼して行ったほうがいいね。]
春風や 牛に引かれて 善光寺 (はるかぜや うしにひかれて ぜんくわうじ)
[春の風に誘われて、走って行く牛を追っていったら、 いつの間にか善光寺に着いた。
不思議なことがあるもんだ。]
やせがへる 負けるな 一茶是にあり (やせがへる まけるな いつさこれにあり)
[おれ[一茶]がいるから頑張れよお痩せさん]
おれとして にらみくらする 蛙かな (おれとして にらみくらする かはづかな)
[おれとにらめっこするつもりなのかい?]
正直は おれも花より 団子かな (しやうじきは おれもはなより だんごかな)
[正直なところ風流なんてくそっくらえだよ。とりあえずは食べることが先]
雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る (すずめのこ そこのけそこのけ おうまがとほる)
[子どもがうろうろしてると踏みつぶされるよ]
我と来て 遊べや 親のない雀 (われときて あそべや おやのないすずめ)
[同じ親無しっ子どおしでいっしょに遊ぼうか]
めでたさも 中くらゐなり おらが春 (めでたさも ちうくらゐなり おらがはる)
[今年の初春は中の上くらいのものかなあ。そんなにめでたくもない]
みなさんの感想はいかがでしたでしょうか。
私は、人間小林一茶の温かさが伝わってくる句だと思うのですが・・・・
小林一茶の生涯について
小林一茶は、1763(宝暦13)年、長野県の北部、北国街道柏原宿(現信濃町)の農家に生まれ、本名を弥太郎といいました。3歳のとき母がなくなり、8歳で新しい母をむかえました。働き者の義母になじめなった一茶は、15歳の春、江戸に奉公に出されました。奉公先を点々とかえながら、20歳を過ぎたころには、俳句の道をめざすようになりました。
一茶は、葛飾派三世の溝口素丸、二六庵小林竹阿、今日庵森田元夢らに師事して俳句を学びました。初め、い橋・菊明・亜堂とも名乗りましたが、一茶の俳号を用いるようになりました。
29歳で、14年ぶりにふるさとに帰った一茶は、後に「寛政三年紀行」を書きました。30歳から36歳まで、関西・四国・九州の俳句修行の旅に明け暮れ、ここで知り合った俳人と交流した作品は、句集「たびしうゐ」「さらば笠」として出版しました。
一茶は、39歳のときふるさとに帰って父の看病をしました。父は、一茶と弟で田畑・家屋敷を半分ずつ分けるようにと遺言を残して、1か月ほどで亡くなってしまいました。このときの様子が、「父の終焉日記」にまとめられています。この後、一茶がふるさとに永住するまで、10年以上にわたって、継母・弟との財産争いが続きました。
一茶は、江戸蔵前の札差夏目成美の句会に入って指導をうける一方、房総の知人・門人を訪ねて俳句を指導し、生計をたてました。貧乏と隣り合わせのくらしでしたが、俳人としての一茶の評価は高まっていきました。
50歳の冬、一茶はふるさとに帰りました。借家住まいをして遺産交渉を重ね、翌年ようやく和解しました。52歳で、28歳のきくを妻に迎え、長男千太郎、長女さと、次男石太郎、三男金三郎と、次々に子どもが生まれましたが、いずれも幼くして亡くなり、妻きくも37歳の若さで亡くなってしまいました。一茶はひとりぽっちになりましたが、再々婚し、一茶の没後、妻やをとの間に次女やたが生まれました。
家庭的にはめぐまれませんでしたが、北信濃の門人を訪ねて、俳句指導や出版活動を行い、句日記「七番日記」「八番日記」「文政句帖」、句文集「おらが春」などをあらわし、2万句にもおよぶ俳句を残しています。
1827(文政10)年閏6月1日、柏原宿の大半を焼く大火に遭遇し、母屋を失った一茶は、焼け残りの土蔵に移り住みました。この年の11月19日、65歳の生涯をとじました
「戦国の女性たち」は次週に掲載する予定です。
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今日の歴史と文化のテーマに「小林一茶」をとりあげますが、一茶の俳句の中にも「花よりだんご」
が出てきます。
日本の文化にはどこか共通するものがあるのかもしれません。
いろはかるた
ふときく声は、子どもの声は、
「はなよりだんご、はの字だよ。」
小雨、ぬか雨、ふるなかを、
にいさんむかえにゆくみちよ。
みかえりゃ、雨戸がしまってて、
それでもあかりはこぼれてた。
「いいかい、おつぎは・・・・・・。」
あるきだす、向こうのむこうが暗いこと。
庭のサツキの中でも少し変わった花弁のサツキです。

曽根城公園の菖蒲がいよいよいっせいに咲き、観光客もどっと押し寄せそうです。

今日は江戸中期俳諧の巨匠小林一茶の俳句と生涯についてふれたいと思います。
松尾芭蕉や与謝蕪村をご存じの方は、当然小林一茶のことも聞いた覚えがあると思います。
私は、松尾芭蕉は自然そのものを詠い、小林一茶は人間を詠ったような想いがします。
好き嫌いは当然ありますが、私が好きなのは小林一茶の方です。
そこで小林一茶の代表的な俳句を紹介して、みなさんから率直なご意見を寄せていただけたらと思います。
私の勝手な解釈をそれぞれの句の下に記しますが、みなさんも一茶の気持ちになって独自の解釈をされてはいかがかと思います。
陽炎や 手に下駄はいて 善光寺 (かげろふや てにげたはいて ぜんくわうじ)
[善光寺はありがたいお寺だから、はじめから最敬礼して行ったほうがいいね。]
春風や 牛に引かれて 善光寺 (はるかぜや うしにひかれて ぜんくわうじ)
[春の風に誘われて、走って行く牛を追っていったら、 いつの間にか善光寺に着いた。
不思議なことがあるもんだ。]
やせがへる 負けるな 一茶是にあり (やせがへる まけるな いつさこれにあり)
[おれ[一茶]がいるから頑張れよお痩せさん]
おれとして にらみくらする 蛙かな (おれとして にらみくらする かはづかな)
[おれとにらめっこするつもりなのかい?]
正直は おれも花より 団子かな (しやうじきは おれもはなより だんごかな)
[正直なところ風流なんてくそっくらえだよ。とりあえずは食べることが先]
雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る (すずめのこ そこのけそこのけ おうまがとほる)
[子どもがうろうろしてると踏みつぶされるよ]
我と来て 遊べや 親のない雀 (われときて あそべや おやのないすずめ)
[同じ親無しっ子どおしでいっしょに遊ぼうか]
めでたさも 中くらゐなり おらが春 (めでたさも ちうくらゐなり おらがはる)
[今年の初春は中の上くらいのものかなあ。そんなにめでたくもない]
みなさんの感想はいかがでしたでしょうか。
私は、人間小林一茶の温かさが伝わってくる句だと思うのですが・・・・
小林一茶の生涯について
小林一茶は、1763(宝暦13)年、長野県の北部、北国街道柏原宿(現信濃町)の農家に生まれ、本名を弥太郎といいました。3歳のとき母がなくなり、8歳で新しい母をむかえました。働き者の義母になじめなった一茶は、15歳の春、江戸に奉公に出されました。奉公先を点々とかえながら、20歳を過ぎたころには、俳句の道をめざすようになりました。
一茶は、葛飾派三世の溝口素丸、二六庵小林竹阿、今日庵森田元夢らに師事して俳句を学びました。初め、い橋・菊明・亜堂とも名乗りましたが、一茶の俳号を用いるようになりました。
29歳で、14年ぶりにふるさとに帰った一茶は、後に「寛政三年紀行」を書きました。30歳から36歳まで、関西・四国・九州の俳句修行の旅に明け暮れ、ここで知り合った俳人と交流した作品は、句集「たびしうゐ」「さらば笠」として出版しました。
一茶は、39歳のときふるさとに帰って父の看病をしました。父は、一茶と弟で田畑・家屋敷を半分ずつ分けるようにと遺言を残して、1か月ほどで亡くなってしまいました。このときの様子が、「父の終焉日記」にまとめられています。この後、一茶がふるさとに永住するまで、10年以上にわたって、継母・弟との財産争いが続きました。
一茶は、江戸蔵前の札差夏目成美の句会に入って指導をうける一方、房総の知人・門人を訪ねて俳句を指導し、生計をたてました。貧乏と隣り合わせのくらしでしたが、俳人としての一茶の評価は高まっていきました。
50歳の冬、一茶はふるさとに帰りました。借家住まいをして遺産交渉を重ね、翌年ようやく和解しました。52歳で、28歳のきくを妻に迎え、長男千太郎、長女さと、次男石太郎、三男金三郎と、次々に子どもが生まれましたが、いずれも幼くして亡くなり、妻きくも37歳の若さで亡くなってしまいました。一茶はひとりぽっちになりましたが、再々婚し、一茶の没後、妻やをとの間に次女やたが生まれました。
家庭的にはめぐまれませんでしたが、北信濃の門人を訪ねて、俳句指導や出版活動を行い、句日記「七番日記」「八番日記」「文政句帖」、句文集「おらが春」などをあらわし、2万句にもおよぶ俳句を残しています。
1827(文政10)年閏6月1日、柏原宿の大半を焼く大火に遭遇し、母屋を失った一茶は、焼け残りの土蔵に移り住みました。この年の11月19日、65歳の生涯をとじました
「戦国の女性たち」は次週に掲載する予定です。
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庭のサツキが完全に満開状態になりました。
ほかほかの撮りたて写真をアップしましたが、枚数が多いため、残りは『続き』に掲載しました。

飽きられるかもしれませんが、金子みすゞの詩の紹介をつづけます。
こころ
おかあさまはおとなで大きいけれど、
おかあさまのおこころはちいさい。
だって、おかあさまはいいました、
ちいさいわたしでいっぱいだって。
わたしは子どもでちいさいけれど、
ちいさいわたしのこころは大きい。
だって、大きいおかあさまで、
まだいっぱいにならないで、
いろんなことをおもうから。

戦国の女性たち
秀吉の犠牲になった家康正妻旭(朝日)姫
旭(朝日)姫[あさひひめ]、天文12年(1543年) - 天正18年1月14日(1590年2月18日)は豊臣秀吉の実父妹(小和田哲男著『豊臣秀吉』(中公新書)によると同父妹)。徳川家康の正室(継室)。父は弥衛門、母は大政所。名前は旭姫、駿河御前、南明院殿、末津とも伝わっています。異父妹という説もありますが、旭姫の生まれたとき実父弥衛門はまだ死亡していないことが判明しています。
尾張国の農夫のもとに嫁ぎますが、秀吉の出世と共に夫が武士(佐治日向守と名乗る)に取り立てられました。秀吉の長浜城主時代に、武士として無能のレッテルを貼られ、夫は抗議の自害をしたため、秀吉与力の副田吉成(甚兵衛)と再婚することになります。1586年、天下統一を目前にした兄秀吉は、家康を懐柔させる為に旭姫と副田吉成を強制的に離縁させ、旭姫を家康の正室として嫁がせました。その後、1588年に母・大政所の病気の見舞いを理由に上洛し、大政所は幸いにも全快しましたが、旭姫はそのまま京都の聚楽第に残り、2年後の1590年聚楽第で病気のため没しました。享年48歳。
前夫の副田吉成は秀吉の加増を拒否し、隠退したといわれています。
また、このときの夫は前述の佐治日向守であったと言う説もあります。
山岡荘八の小説「徳川家康」ではこれを採っており、ドラマ等でも佐治日向守説が多く取り入れられていますが、私は再婚説をとりたいと思います。
旭姫は家康に嫁いだ後、わずか4年で亡くなっていますが、これは、家康が旭姫を迷惑がったというよりも、旭姫が家康に馴染めなかったのが主な原因ではないかと推察されます。
旭姫は、家康に従って駿府に入り、屋敷を与えられて「駿河御前」と呼ばれていました。しかし、1586年、生母大政所が病気との知らせを受けて上洛します。結局、京都に留まって家康とは永遠の別れとなりました。前述したように、旭姫は大政所よりも早く亡くなってしまったわけです。
また、家康が望んでした結婚ではありませんが、「関白秀吉の妹」というのは、当時の状況を考えると権威のある肩書きともとれましたから、家康は自分の立場をよくするために旭姫を利用しようとしていたとも考えられます。したがって家康にとっても、旭姫との結婚は決して悪い話ではなかったようです。そう考えると、旭姫が嫁いできたときの家康の態度は、ドラマで表現されたようなおだやかなものだったかもしれません。
どちらにしても、旭姫にとっては人間性を否定された、実にひどい話だったのは間違いないようです。兄秀吉の野望の道具にされ上、2度までも夫と別れなければならないという、まったく不幸な一生を送らされたわけです。
旭姫の死後、家康は駿府の瑞龍寺に墓を造り、瑞竜院殿光堂総旭大禅定尼とおくり名をしました。秀吉も小田原征伐の帰途、瑞竜寺に寄り和尚を召し出して妹旭姫の菩提のため、八貫文の朱印と膳椀を寄進しました。家康も慶長4年(1599)16石の朱印と伝明兆筆の十六羅漢の三幅対の画と旭姫御物、御紋桐総縫小袖で造った打敷きを寄進しました。旭姫の墓は寺の奥の高台にあります。又境内に、どういうわけか切支丹灯篭もあるとのことです。
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ほかほかの撮りたて写真をアップしましたが、枚数が多いため、残りは『続き』に掲載しました。

飽きられるかもしれませんが、金子みすゞの詩の紹介をつづけます。
こころ
おかあさまはおとなで大きいけれど、
おかあさまのおこころはちいさい。
だって、おかあさまはいいました、
ちいさいわたしでいっぱいだって。
わたしは子どもでちいさいけれど、
ちいさいわたしのこころは大きい。
だって、大きいおかあさまで、
まだいっぱいにならないで、
いろんなことをおもうから。

戦国の女性たち
秀吉の犠牲になった家康正妻旭(朝日)姫
旭(朝日)姫[あさひひめ]、天文12年(1543年) - 天正18年1月14日(1590年2月18日)は豊臣秀吉の実父妹(小和田哲男著『豊臣秀吉』(中公新書)によると同父妹)。徳川家康の正室(継室)。父は弥衛門、母は大政所。名前は旭姫、駿河御前、南明院殿、末津とも伝わっています。異父妹という説もありますが、旭姫の生まれたとき実父弥衛門はまだ死亡していないことが判明しています。
尾張国の農夫のもとに嫁ぎますが、秀吉の出世と共に夫が武士(佐治日向守と名乗る)に取り立てられました。秀吉の長浜城主時代に、武士として無能のレッテルを貼られ、夫は抗議の自害をしたため、秀吉与力の副田吉成(甚兵衛)と再婚することになります。1586年、天下統一を目前にした兄秀吉は、家康を懐柔させる為に旭姫と副田吉成を強制的に離縁させ、旭姫を家康の正室として嫁がせました。その後、1588年に母・大政所の病気の見舞いを理由に上洛し、大政所は幸いにも全快しましたが、旭姫はそのまま京都の聚楽第に残り、2年後の1590年聚楽第で病気のため没しました。享年48歳。
前夫の副田吉成は秀吉の加増を拒否し、隠退したといわれています。
また、このときの夫は前述の佐治日向守であったと言う説もあります。
山岡荘八の小説「徳川家康」ではこれを採っており、ドラマ等でも佐治日向守説が多く取り入れられていますが、私は再婚説をとりたいと思います。
旭姫は家康に嫁いだ後、わずか4年で亡くなっていますが、これは、家康が旭姫を迷惑がったというよりも、旭姫が家康に馴染めなかったのが主な原因ではないかと推察されます。
旭姫は、家康に従って駿府に入り、屋敷を与えられて「駿河御前」と呼ばれていました。しかし、1586年、生母大政所が病気との知らせを受けて上洛します。結局、京都に留まって家康とは永遠の別れとなりました。前述したように、旭姫は大政所よりも早く亡くなってしまったわけです。
また、家康が望んでした結婚ではありませんが、「関白秀吉の妹」というのは、当時の状況を考えると権威のある肩書きともとれましたから、家康は自分の立場をよくするために旭姫を利用しようとしていたとも考えられます。したがって家康にとっても、旭姫との結婚は決して悪い話ではなかったようです。そう考えると、旭姫が嫁いできたときの家康の態度は、ドラマで表現されたようなおだやかなものだったかもしれません。
どちらにしても、旭姫にとっては人間性を否定された、実にひどい話だったのは間違いないようです。兄秀吉の野望の道具にされ上、2度までも夫と別れなければならないという、まったく不幸な一生を送らされたわけです。
旭姫の死後、家康は駿府の瑞龍寺に墓を造り、瑞竜院殿光堂総旭大禅定尼とおくり名をしました。秀吉も小田原征伐の帰途、瑞竜寺に寄り和尚を召し出して妹旭姫の菩提のため、八貫文の朱印と膳椀を寄進しました。家康も慶長4年(1599)16石の朱印と伝明兆筆の十六羅漢の三幅対の画と旭姫御物、御紋桐総縫小袖で造った打敷きを寄進しました。旭姫の墓は寺の奥の高台にあります。又境内に、どういうわけか切支丹灯篭もあるとのことです。
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