☆☆ まり姫のあれこれ見聞録 ☆☆&

美濃・尾張・近江・伊勢(まり姫の史跡めぐり&見たこと・聞いたこと!)

Category :  追憶
tag :  平和
昨日、8月9日は原爆投下から64年目になる長崎の原爆記念日。

一発の原爆で、二十数万におよぶ無辜の市民が命を奪われつづけているという悲惨な現実に、目をそらして生きていくことは、唯一の被爆国である日本国民として恥ずかしいことだと思います。
『サユリスト』であった亡き父が最も敬愛した、今も輝き続ける大女優吉永小百合さんのライフワークは、反核・非戦・平和を訴え続けることです。

吉永小百合さんはこれまで学校の体育館や公民館など、どんな小さな集まりでも足を運び、原爆の朗読で平和の尊さを訴えてきました。次の世代を担う子供達へ、その想いを伝えたいと、語り続けてきました。かつて吉永さんの朗読を聞いた子供達は大人になり、それぞれの道を歩み始めています。そして吉永さんの想いを、また次の世代へ語り継ごうとしています。
平和を言葉で紡ごうとする吉永小百合さんの姿に、私は感動し、強く心をうたれました。

吉永小百合さんが朗読会で必ず最初に読むのは、広島で被爆した人 峠三吉の代表作『序』。わずか8行のに、怒りや強く生きる意志が込められています。


「にんげんをかえせ」    峠三吉

       『序』
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ


(英文)
Give me back my father
Give me back my mother
Give me back my grandparents
Give me back my children

Give me back myself
Give me back my people

As long as men live in this world
Immutable peace
Bring back peace



私たち若い世代も、吉永小百合さんが訴え続けている「戦争の恐ろしさ、核兵器の恐ろしさを、子供達に受け継ぐ」ことが求められていると考えずにはいられません。

日本が無謀な戦争で多くの被害を出し、結局無条件降伏した8月15日も近くなっています。
私たちは今一度、「二度と無意味な戦争という過ちを起こさない」為に、自らの行動を再確認してみる必要があるかも知れないと考えさせられた8月9日です。


8月6日の記事に反応して、コメントを寄せていただいた方はお1人でした。
拍手をいただいた名も知らない多くの方には、心からお礼を申し上げます。
ありがとうございました。


峠三吉について

峠三吉は日本の代表的な原爆の被爆人。1951年に『原爆集』を発刊し、その翌年に広島市民と子どものアンソロジー『原爆雲の下より』を編纂。三吉も被爆し、初期の被爆者運動にも参加したこともあるが、反戦・反原爆(反占領も)を強くアピールするようになる。
きっかけとなったのは、アメリカの朝鮮戦争での原爆使用を考慮するというトルーマン声明(1950年)である。「広島市民からただちに意思表示を」(日記)すべきだとして、占領下のプレスコード(報道禁止令)に抗って、三吉は原爆を書き始めた。その背景には、ストックホルムアピール(原子兵器の禁止、国際管理などの世界平和評議会の決議)への彼の信念があった。「にんげんをかえせ」の詩句は、『原爆詩集』の冒頭の「序」の詩にあるが、これは彼の反原爆=核兵器廃絶の魂の叫びで、私たち若い世代へ訴えかける三吉の魂の詩といっても過言ではない。
峠三吉は1917年に生まれ、1953年3月、手術途中で死去。36歳の若さであった。


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この一輪のの名は「露草」、今の時期にぴったりのような・・・・
露草 (つゆくさ)
今が旬の・・・・
木槿(むくげ)

久しぶりに金子みすゞを紹介します。
みなさん、それぞれ自由に解釈してくださればいいと思います。

雨のあと

日かげの葉っぱはなきむしだ、
ほろりほろりとないている。

日かげの葉っぱはわらいだす、
なみだのあとがもうかわく。

日かげの葉っぱのなきむしに、
たれか、ハンカチかしてやれ。


中山道史跡の旅(近江路)

鳥居本から彦根市小野の集落を通り抜け、近江鉄道の踏み切りまでくると、高宮宿になります。

木曽街道高宮(歌川広重作)
64-木曽街道高宮

高宮宿は、人工密度の大きい宿場で、宿高2923石、町並み7町16間、天保14年の人口
3560人、家数835軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋23軒があったとされています。

高宮宿は、高宮布の集散地として、問屋や小売店が軒を並べていたと伝えられます。
高宮布は、近江上布とも称される麻布で、細糸で織った質のよい高級品として珍重され、古くは
近江の守護、佐々木氏が足利幕府にも献上したといわれています。

高宮宿の馬場家をはじめ隣接する豊郷の集落では、藤野家、後の「丸紅・伊藤忠」の創始者とな
った伊藤家など豪商を輩出しました。

        高宮宿の入口                 高宮宿街並み
高宮宿の入口  高宮宿街並み2

                       同じく高宮宿街並み
高宮宿街並み1  高宮宿街並み3

     本陣跡(道筋に見られます。)       円照寺(一般公開はされていません。)
高宮宿本陣跡  高宮宿円照寺
円照寺境内には、徳川家康が大阪の陣、出陣の際に休息したという腰懸石があります。

「芭蕉の紙子塚」(道筋に見られます。)
俳人、松尾芭蕉は高宮の小林家で一泊し、自分の横臥している姿の画を描いて「たのむぞよ寝
酒なき夜の古紙子」という句を作ったそうです。
小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、後に庭に塚を作り、古い紙子を収め「紙子塚」と名づけ
たと伝えられています。

       高宮宿芭蕉の紙子塚
高宮宿芭蕉の紙子塚


「多賀大社の大鳥居」(街道筋に見られます)
表参道口に建つ多賀大社の一の鳥居。滋賀県指定文化財。寛永12年(1635)の建立で、高さ
約11メートル、柱間約8メートルあり、滋賀県最大級の鳥居です。鳥居の横に常夜灯と、多賀へ
の道標「是より多賀みち三十丁」と刻まれた石柱がありました。

         多賀大社鳥居
多賀大社鳥居

     高宮神社(一般公開されていません)
高宮神社


高宮宿を出て、愛知川宿に向かいましたが、高宮宿の境は、犬上(いぬかみ)川までです。 
川に架かる橋は高宮橋といいますが、江戸時代には 無賃橋(むちんはし)と呼ばれました。

        無賃橋
高宮宿の見附(無賃橋)

「無賃橋」の由来を説明する案内板が立てられていて、「彦根藩は、この地の豪商・藤野四郎兵
衛、小林吟右衛門、馬場利左衛門らに命じ、橋の費用を広く一般の人々から募らせ、橋をかけさ
せた。江戸時代には川渡しや仮橋利用の際、お金をとられたが、このようにして架けられたの
で、この橋の通行は無料だった」と書かれています。

江戸時代の旅人にとって、橋の通行料がいらないことで大助かりしたようです。 


木曽街道恵智川(歌川広重作)
65-木曽街道恵智川

愛知川宿は、記録によれば天保年間には本陣1、脇本陣1、旅篭が28軒、問屋が3軒で、宿内
人口は922人 で、中規模の宿場町だったようです。 

中山道愛知川宿のアーチ」
街道の頭上に中山道愛知川宿と書かれた、冠木門形のアーチが掛かっていました。

「八幡神社前の高札場跡碑」
八幡神社の石灯篭の左脇に高札場の標石があります。(小さいので見落としそう)

        愛知川宿口                  愛知川宿高札場跡
愛知川宿口  愛知川宿高札場跡

「脇本陣跡」
脇本陣は洋風の建てもので、江戸時代の雰囲気はありません。

「問屋場跡」
路肩に『問屋跡』の標石が立っていましたが、友人が気がつかなければ見落とすところでした。

      愛知川脇本陣跡                  愛知川問屋場跡
愛知川脇本陣跡  愛知川問屋場跡

「明治天皇御聖跡碑が立つ竹平楼」
宿の外れ近くに、黒板塀門構えの屋敷があり、玄関脇に『明治天皇御聖跡』の大きな碑が立って
いるのが料理旅館竹平楼。江戸時代は愛知川一の旅籠「竹の子屋」でした。
中には明治11年(1878)御小休のときの玉座が残されているといいます。

     旅籠竹の子屋(現料亭竹平楼)
旅籠竹の子屋(現料亭竹平楼)

「愛知川宿出口にあるアーチ」
宿場はずれに『中山道愛知川宿』のアーチがあり、ここで宿が終わりました。

愛知川西方見附
愛知川西方見附


アーチを抜けて、国道8号線と合流してから次の武佐宿まで二里半(10km)の道のりです。
武佐宿から大津宿までは、また写真の確認に出向いてきます。


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Category :  新選組
tag :  新美南吉 紫陽花 写真
天使の歌声パート2。
天使の歌声のキャッチコピーのとおり、澄んだ美しい透明な歌声・・・
天から舞い降りた天使のような歌声を持ってデビューした12歳の少女。
疲れた心に響き渡り、癒しのひとときを過ごせそうです。
シャルロットチャーチのピエ・イエズ

久しぶりに新美南吉を一篇紹介します。

現在は文章を書くとき、パソコンでキーボードをたたくのがほとんどですが、新美南吉の時代はペンを
用いて書くのが当たり前のことでした。
そんな南吉がわが指を見て詠んだ<ペン胝>

わが指はペン胝あり
かえりみれば幾年
ペンを握りて物を書きしか

かなしやペン胝
われペン胝より何をか産みしと言わん
        つく
一足の靴さえ製らず
一脚の椅子さえ製りしにあらず

まことにはかなき
かいやりすつべき反古のみ
はずか
耻しやこのペン胝を
わが指より削り去るべき
すべはもなきか


性海歴史公園の紫陽花写真の種類別に掲載した数が、ちょうど50種類を超えました。
性海では種類ごとに名前板が表示してあり、公称90種類ですが100種類以上ありました。
撮影した写真で掲載できそうなものが、まだ150枚ほどあります(約50種類)。
庭で咲いている鉄砲ユリの写真なども紹介したいのですが、どうしようか考慮中です。
なお、本日掲載分もメールサイズに縮小してあります。

            ピンクダイヤモンド                      ブルースカイ
     2009.6.14 ピンクダイヤモンド  2009.6.14 ブルースカイ2

             白舞妓                       ウズアジサイ
     2009.6.13 白舞妓  2009.6.13ウズアジサイ2

              カクレザト                     はるな
     2009.6.13カクレザト  2009.6.14 はるな2

               七段花                      沢美人
     2009.6.13 七段花  2009.6.13 沢美人





美濃出身新選組隊士№2 市村鉄之助

1854年、大垣藩士であった市村半右衛門の三男として鉄之助は生まれました。
1859年に父半右衛門が大垣藩より追放され、鉄之助は親類のいる近江国国友村(現滋賀県長浜市)で育ちました。
1867年(慶応3年)の隊士募集で兄の辰之助と共に14歳で新選組に入隊しています。
兄の辰之助は両長抱として、鉄之助は土方歳三附属を命じられました(島田魁英名録による)。
同年、新選組は幕府直参に取り立てられ、鉄之助も14歳にして幕臣の身分となりました。

ところが、同年11月将軍徳川慶喜が大政奉還をしたため幕府は消滅してしまいました、
翌1868年1月の鳥羽伏見の戦いで、時代の流れには勝てず、旧幕府軍は薩長連合に大敗北となります。新選組も多くの死傷者や脱走者を出し、やむなく大阪へ撤退した後、江戸へ船で帰還しました。
その後、新選組は「甲陽鎮撫隊」を名乗り甲州防衛に向かいますが、近藤勇の行軍の遅さもあって、先に甲州へ入っていた西軍と交戦になりまたも大敗します。
結局新選組は、再度江戸へ退くことになりました。

江戸帰還後に鉄之助は歩兵募集に従事しています。
ちょうどこの頃に、兄の辰之助は新選組を脱退して郷里大垣にもどりました。
流山で局長近藤勇が捕縛された後、残った隊士たちは会津で斉藤一のグループと土方歳三のグループに分裂し、土方歳三についていた鉄之助は、その後福島、仙台へと転戦し、そして蝦夷へ向かいました。

鉄之助はは土方歳三の小姓として付き添い、土方は鉄之助を「頗る勝気、性亦怜悧」と評しています。
1869年5月はじめ、鉄之助は土方と共に戦死する覚悟でしたが、土方に箱館からの脱出を命じられました。
最初は拒否していましたが、土方の「従えなければ斬ってすてる」という言葉に逆らえず、土方の髪、写真、刀を託されて離脱しました。3ヵ月ほど後に鉄之助はは明治政府軍の包囲を掻い潜り、土方の義兄佐藤彦五郎家に乞食のような身なりで到着しました。
鉄之助は約2年ほど佐藤彦五郎家に世話になり、実家に帰って商売をしていた兄が病で倒れ、大垣に呼び戻されました。
しかし、兄の死から1年後の1873年に大垣で病死しました。

全昌西側にある市村家代々の墓(鉄之助・辰之助兄弟の墓)
市村鉄之助・辰之助の墓2

新しい墓ですからすぐにわかります。

以上が市村鉄之助の大まかな経歴です。
最近ドラマ、アニメなどで市村鉄之助が注目されていますが、あまりにも史実とかけ離れている部分があります。
そこで、以前(3月)に書いた記事を再掲載しておきます。

美濃大垣藩出身の新選組隊士市村辰之助・鉄之助兄弟の戊辰戦争後から死亡時期まで明らかにされた史料が発表されてから、大垣市の全昌を訪れる新選組大好き人間やマニアが増えています。
鉄之助が土方歳三の遺品を佐藤家に届けたこともドラマや小説・マンガなどで広く知られるようになり、若い層にも受け入れられています。
でもドラマや小説は所詮フィクションであり、歴史的事実をきちんと伝えようとライフワークにしている研究家が多いですね。

市村鉄之助といえば田原坂で戦死したとか、薩摩で戦死したらしいなどと有名な歴史家や作家たちが事実であるかのように書いていますが、そのほうがロマンがあるかもしれないかな、市村鉄之助は明治6年11月16日大垣市田町で病死していることが史料で明らかになっています。
(法名養浩院廓然良機居士)
兄辰之助は前年2月7日に病没しています。
歴史的事実に目を背け、自分の思い込みや一部の新選組研究者の論文だけ信用することは後世に生きる私たちは厳に慎むべきだと思います。
「新選組熱烈フアン」を公言されているみなさんはどう思いますか?
最近私が読んだ新選組関連書籍の感想でした。


以上3月に掲載した記事でした。

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Category :  今日は何の日?
tag :  誕生花 写真
今日は何の日かと思い巡らせ、カレンダーを見ていて思い出しました。
そう『父の日』でした。
父を早く亡くしたせいか、うっかり忘れていました(お粗末)。
父親の健在な方は、プレゼントされたでしょうか?
私はお墓にでも手向けに行こうかと思っています。

ほかに「今日は何の日」を調べていたらたくさん出てきました。
『大師』の縁日は別にして、それなりに理由があると考えて記念日にしたのでしょうね。
※大師の縁日※スナックの日(全日本菓子協会が制定)※ベルトの日※かばんの日
※靴の日※さくらんぼの日※漬物の日※ふれ愛交番の日

もっと大きな事件があった日でもあります。
1900年、中国大陸で弱体化した「清」の領土を侵食・植民地化していた米英など列強8ヵ国に対して「清」が宣戦布告をした日です。
義和団の乱(ぎわだんのらん)は、中国清朝末期の動乱です。当初は義和団を称する秘密結社による欧米列強に対する排外運動でしたが、1900年(光緒26年、明治33年)に西太后がこの反乱を支持して欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となりました。しかし、宣戦布告後2ヶ月も経たないうちに欧米列強国軍は首都北京及び紫禁城を制圧、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされました。
ちなみに日本は列強の中でも、とくに大量の軍隊を派兵しています。


15日に所用で大垣市へ行ったとき立ち寄った大垣市歴史館です。
閉館寸前の17時前だったため、入館は係員に断られました。
やむを得ず外の写真だけ撮ってきました。

          大垣城公園の西にある大垣市歴史館
     DSCF0520.jpg

             大垣市歴史館内の庭園
     DSCF0523.jpg

庭に咲いた2種類の
友人から強引にもらったもので、どんな色のが咲くのか全くわかりませんでした。
でもバランスよく、レッドとブルーのです。
友人の仏頂面を思い出し、「悪いことしたかな」と、ほんの一瞬だけ反省。

     DSCF0526.jpg

     DSCF0525.jpg


6月のといえば、やはり月見草がしっくりきます。

古い童謡でご存じない方もいらっしゃるでしょう。
童話作家山川清の作詞による→月見草の花
を噛みしめながら聴いてみると、何となく目頭が熱くなります。

1 はるかに海の見える丘
  月のしずくをすって咲く
  夢のお花の月見草
  花咲く丘よ なつかしの

2 ほんのり月が出た宵は
  こがねの波がゆれる海
  ボーと汽笛をならしてく
  お船はどこへ行くのでしょ
3 思い出の丘 花の丘
  きょうも一人で月の海
  じっとながめる足もとに
  ほのかに匂う月見草

                      月見草
          月見草2

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テーマ:雑記 - ジャンル:ブログ

うっとおしい日がつづいています。いよいよ梅雨の時期がくるような予感。
この時期を詠んだ金子みすゞを紹介します。

       [つ ゆ]

       だれにもいわずにおきましょう。

       朝のお庭のすみっこで、
       がほろりとないたこと。

       もしもうわさがひろがって
       はちのお耳へはいったら、

       わるいことでもしたように、
       みつをかえしにゆくでしょう。



今日は自慢できるものの紹介をさせていただきます。
薄墨桜も自慢の1つですが、私の家のすぐ近くを流れている根尾川は自然をしっかり残しています。
大雨が降るとあばれ川に変貌して、ひどいときは川沿いの国道も当然通行止めになりますが、普段は清流そのもので、アユ、川マス、支流に行けばアマゴ釣りなどができ、釣り人がおしかけます。
峠越えをすると悪名高い日本最大の徳山ダム(貯水量は日本一とか)がありますが、根尾川はまがりなりにも揖斐川に合流するまでダム(小さな堰はある)はありません。
徳山ダムの水が余るので、長良川にむりやり水を送る工事をするって、ほんと「水余りで金だけかける無駄な事業」と名古屋市長も言ってました。
ついぼやいてしまったけど、根尾川は当分大丈夫かな。

               根尾川最上流        近くの根尾川
              根尾川最上流       近所の根尾川
          根尾川温見付近               根尾川中流
       根尾川温見付近      根尾川中流

わが故郷、飛騨高山の大八賀川に決してひけをとらないいいところです。
もちろん山の中ですから温泉もあります(これは飛騨に負けます)。

                  今日のお気に入り

          一輪だけ咲きました(名前不明です。誰か教えてください)
           DSCF0492.jpg

            誰でもわかる満開のサツキ3種類(葉の形も違います)
           DSCF0487.jpg

           DSCF0486.jpg

           DSCF0488.jpg




戦国時代の女性たち

淀殿(自ら招いた豊臣家滅亡)
淀殿と称された茶々は、北近江を支配していた小谷城主浅井長政と信長の妹・お市の長女として、1567(永禄十)年に生まれました。
茶々が7歳の時に小谷城の落城という悲劇にあい、母お市と2人の妹たちとともに信長方に送られた。父長政と祖父久政は自刃、別に逃がされた嫡男の万福丸は信長の命で串刺しの刑、祖母小野殿も処刑されました。信長保護下で母・妹らとともに尾張・美濃などで9年を過ごしたのち、本能寺の変で信長が非業の最期をとげた後の信雄・信孝兄弟や重臣たちの権力争い(清洲会議)によって、母お市が柴田勝家の妻となることになり、茶々たち3人の姉妹はお市に従って越前北ノ庄城に移りました。しかし安寧は長続きせず、柴田勝家は1583年、信長3男信孝とともに羽柴秀吉への戦いをしかけました。すべてに優る秀吉軍の前に柴田勝家は惨敗し、越前北ノ庄に逃亡しますが、結局城を取り囲まれ、炎の中、お市とともに自刃して果てました。茶々たち3人の姉妹は、義父勝家を自刃に追い込んだ秀吉に保護されたのです。茶々16歳のときでした。

淀殿

秀吉は父母の仇ですが、彼女たちはその援助を受けて生きていかなければなりません。茶々は嘆き悲しむことをせず、秀吉を利用することを考えて、以後自らの境遇を耐えていきます。秀吉は成長する茶々に、かつてあこがれたお市の面影をみるようになりました。秀吉は年の差も気にせず、お市に似ている茶々を周囲の反対を押し切って側室にしようとしました。茶々は当初、秀吉を嫌っていましたが、戦国の女は仇敵の側室になることは珍しくないことを悟り、1588(天正十六)年茶々(淀殿)は複雑な思いを抱きながらも、秀吉の側室になりました。茶々22歳、秀吉52歳のことでした。まもなく茶々は懐妊し、秀吉から出産のため京都淀城をあてがわれます。

鶴丸を出産したことで、秀吉の野望と茶々の傲慢ぶりが表面化していきます。豊臣家臣たちも茶々を淀殿と呼ぶようになり、茶々の増長はますますひどくなっていきました。しかし、鶴丸はわずか3歳で病死しました。秀吉は弟秀長の再三の忠告を聞き入れず、また1591年に秀長が死ぬと、ブレーキのきかなくなった秀吉と茶々(淀殿)は側近も近江出身者ばかりに替えていきます。その後、1592(文禄元)年、大阪城二ノ丸でお拾い(のちの秀頼)を生みました。於寧をはじめ、ほかの側室にも子はいませんでしたから、茶々(淀殿)は側室筆頭の位置を占めたわけです。その分秀吉の溺愛も厚かったものとみられます。

1598(慶長三)年秀吉が62歳で他界すると、その遺言により茶々と秀頼が大坂城に移ってきました。於寧が大坂城を去ってからは、大坂城の実権は、事実上淀殿が握ることとなりました。淀殿は、まだ6歳だった後継ぎの秀頼を伴い、大坂城本丸に入城、そのことで大坂の女城主的な地位に登りつめたと錯覚したのかもしれません。残念ながら武断派の大名達とはもともと疎遠であり、家康の策略にも冷静さを欠き、神仏への崇拝から散財をし、また感情的で名門出身という誇りにしがみついたことが、豊臣家滅亡の引き金となったことは否めません。

秀吉の子だからといって、必ずしも秀吉と同じように天下人になれる器量があるとは限りません。淀殿にはそうしたことに気付く冷静さがなく、世の中の動きすらも見えず、側近の石田光成を筆頭とする近江出身の家臣の讒言を信用しすぎました。一方で、残された淀殿の書状には、確かな教養の手応えが感じられるものがあるもといわれています。、また、寂しい晩年を送っていた信長の側室おなべの方に同情する情け深さもみせています。その後の関ケ原の戦い、大坂冬の陣、豊臣家滅亡の瞬間である大坂夏の陣と、いずれも淀殿が自ら招いた結果と言っても過言ではありません。もう少し聞く耳を持っていたら、少なくとも豊臣家はこの時点で滅亡することはなかったのではないでしょうか。
結果、淀殿は大坂城に火を放ち、秀頼も自刃して果てるという結末を迎えることになりました。淀殿49歳、秀頼はまだ23歳の若さでした。

井上靖著「淀殿日記」をあたかも史実のように信じている人もいますが、歴史的事実はそんなに美しいものではありません。
いかに時代に翻弄されたとはいえ、栄耀栄華におぼれた淀殿は、2人の妹たちと比べるとあまりにも傲慢すぎました。前々回にとりあげた築山殿と比較しても、悲劇の女性とは言い難いものがあります。


中山道史跡めぐりの旅は、美濃河渡宿(54番目)から近江武佐宿(66番目)までを駆け足でめぐるもので、ゆっくりと散策できるものではありませんでした。
できれば隠れた名所・旧跡なども訪ねたかったのですが、一泊では無理でした。
やはり、1日2~3ケ所が一番いいペースだと感じました。
なお、中山道史跡めぐりの記事は、『戦国時代の女性たち』の終了後に順次掲載していく予定です。

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歴史・平和・歌舞伎・花・
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