<管理人よりお知らせ>
いつも訪問していただきありがとうございます。
7月25日よりブログ名を「歴史つれづれ散歩」から「まり姫のあれこれ見聞録」に変更いたしました。
リンクを貼らせていただいている皆さま、大変お手数をおかけしますが、拙ブログのブログ名の変更をしていただきますようお願い申し上げます。(リンクの貼り直し)
今後ともお付き合いいただけますようよろしくお願い申し上げます。
尚、このお知らせは、7月末をもって終了させていただきます。
今日7月30日は童話作家の新美南吉が生まれた日です。
多くの人が教科書で見たことのある、童話『ごんぎつね』の作者です。
新美南吉は1913年7月30日愛知県半田町字東山86番地(現半田市)で、渡辺多蔵の二男として誕生しました。「正八」と命名。
旧制半田中学(現半田高校)、東京外国語学校英文科(現東京外大)を経て、河和小学校の代理教員、杉治商会に勤務。
昭和13年安城高等女学校の教員となり、同18年結核で死を覚悟して退職するまで、生徒たちとの交流や創作活動に力を注ぎました。
当時は軍国主義一色で、児童文学は「冬の時代」をむかえていたこともあり、南吉の作品の、平和とヒューマニズムに富んだ内容は、特異な存在でした。[1943年3月22日歿]
現代社会では、なかなかそういう作家が出現しないことに不安を覚える今日この頃です。
元気な頃の新美南吉

7月30日の誕生花
大和撫子[やまとなでしこ](河原撫子[かわらなでしこ]) Superb pink
花言葉は大胆

菩提樹[ぼだいじゅ]<洋種> Lime Tree / Linden
花言葉は夫婦愛
その他の出来事
1912年明治天皇(天皇(122代)) がこの日に崩御<59歳>
正式には7月29日22:43崩御だったが、公式発表では30日0:43となっている。[1852年9月22日生]
1913年伊藤左千夫[いとう・さちお] (歌人,小説家『野菊の墓』) 死去<48歳>
1918年米価が大暴騰。各地の米穀取引所で立会い停止
堂島米会所における当時の米相場1914年の第一次世界大戦開始の直後に暴落した米価は、周りの物価が少しずつ上昇していく中で、約3年半の間ほぼ変わらない値段で推移していたが、1918年(大正7年)の中ごろから急激に上昇しはじめた。大阪堂島の米市場の記録によれば、1918年の1月に1石15円だった米価は、6月には20円を超え、翌月7月17日には30円を超えるという異常事態になっていた(当時の一般社会人の月収が18円-25円)。7月末から8月初めにかけては各地の取引所で立会い中止が相次ぎ、地方からの米の出回りが減じ、8月7日には白米小売相場は1升50銭に暴騰した。
この背景には資本主義の急速な発展が指摘されています。第一次世界大戦の影響による好景気(大戦景気)は都市部の人口増加、工業労働者の増加をもたらしたほか、養蚕などによる収入の増加があった農家は、これまでのムギやヒエといった食生活から米を食べる生活に変化していきました。このように、農業界からの人材流出と米の消費量の増加が続いた事に加え、大戦の影響によって米の輸入量が減少した事も重なって、米価が暴騰する原因となりました。
1947年幸田露伴[こうだ・ろはん] (小説家,劇作家,随筆家『五重塔』) 死去<80歳>
代表作の『五重塔』は劇化され、全国で何度も上演されている。
1965年谷崎潤一郎[たにざき・じゅんいちろう] (小説家,劇作家『細雪』『春琴抄』) 死去<79歳>
退廃文学の極みと酷評されることもあるが、恋愛小説の第一人者として評価されてもいる作家だった。
2007年小田実[おだ・まこと] (平和運動家、小説家,評論家)死去 <75歳>
ベトナム戦争に反対し、反戦運動のリーダーとして活躍。
その後、文筆・評論活動をしながら平和運動に携わる。死の直前まで憲法9条を守る運動の中心的役割を担っていた。
ただいまランク急降下中

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今後ともお付き合いいただけますようよろしくお願い申し上げます。
尚、このお知らせは、7月末をもって終了させていただきます。
今日7月30日は童話作家の新美南吉が生まれた日です。
多くの人が教科書で見たことのある、童話『ごんぎつね』の作者です。
新美南吉は1913年7月30日愛知県半田町字東山86番地(現半田市)で、渡辺多蔵の二男として誕生しました。「正八」と命名。
旧制半田中学(現半田高校)、東京外国語学校英文科(現東京外大)を経て、河和小学校の代理教員、杉治商会に勤務。
昭和13年安城高等女学校の教員となり、同18年結核で死を覚悟して退職するまで、生徒たちとの交流や創作活動に力を注ぎました。
当時は軍国主義一色で、児童文学は「冬の時代」をむかえていたこともあり、南吉の作品の、平和とヒューマニズムに富んだ内容は、特異な存在でした。[1943年3月22日歿]
現代社会では、なかなかそういう作家が出現しないことに不安を覚える今日この頃です。
元気な頃の新美南吉

7月30日の誕生花
大和撫子[やまとなでしこ](河原撫子[かわらなでしこ]) Superb pink
花言葉は大胆

菩提樹[ぼだいじゅ]<洋種> Lime Tree / Linden
花言葉は夫婦愛
その他の出来事
1912年明治天皇(天皇(122代)) がこの日に崩御<59歳>
正式には7月29日22:43崩御だったが、公式発表では30日0:43となっている。[1852年9月22日生]
1913年伊藤左千夫[いとう・さちお] (歌人,小説家『野菊の墓』) 死去<48歳>
1918年米価が大暴騰。各地の米穀取引所で立会い停止
堂島米会所における当時の米相場1914年の第一次世界大戦開始の直後に暴落した米価は、周りの物価が少しずつ上昇していく中で、約3年半の間ほぼ変わらない値段で推移していたが、1918年(大正7年)の中ごろから急激に上昇しはじめた。大阪堂島の米市場の記録によれば、1918年の1月に1石15円だった米価は、6月には20円を超え、翌月7月17日には30円を超えるという異常事態になっていた(当時の一般社会人の月収が18円-25円)。7月末から8月初めにかけては各地の取引所で立会い中止が相次ぎ、地方からの米の出回りが減じ、8月7日には白米小売相場は1升50銭に暴騰した。
この背景には資本主義の急速な発展が指摘されています。第一次世界大戦の影響による好景気(大戦景気)は都市部の人口増加、工業労働者の増加をもたらしたほか、養蚕などによる収入の増加があった農家は、これまでのムギやヒエといった食生活から米を食べる生活に変化していきました。このように、農業界からの人材流出と米の消費量の増加が続いた事に加え、大戦の影響によって米の輸入量が減少した事も重なって、米価が暴騰する原因となりました。
1947年幸田露伴[こうだ・ろはん] (小説家,劇作家,随筆家『五重塔』) 死去<80歳>
代表作の『五重塔』は劇化され、全国で何度も上演されている。
1965年谷崎潤一郎[たにざき・じゅんいちろう] (小説家,劇作家『細雪』『春琴抄』) 死去<79歳>
退廃文学の極みと酷評されることもあるが、恋愛小説の第一人者として評価されてもいる作家だった。
2007年小田実[おだ・まこと] (平和運動家、小説家,評論家)死去 <75歳>
ベトナム戦争に反対し、反戦運動のリーダーとして活躍。
その後、文筆・評論活動をしながら平和運動に携わる。死の直前まで憲法9条を守る運動の中心的役割を担っていた。
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天使の歌声パート2。
天使の歌声のキャッチコピーのとおり、澄んだ美しい透明な歌声・・・
天から舞い降りた天使のような歌声を持ってデビューした12歳の少女。
疲れた心に響き渡り、癒しのひとときを過ごせそうです。
シャルロットチャーチのピエ・イエズ
久しぶりに新美南吉の詩を一篇紹介します。
現在は文章を書くとき、パソコンでキーボードをたたくのがほとんどですが、新美南吉の時代はペンを
用いて書くのが当たり前のことでした。
そんな南吉がわが指を見て詠んだ詩<ペン胝>
わが指はペン胝あり
かえりみれば幾年
ペンを握りて物を書きしか
かなしやペン胝
われペン胝より何をか産みしと言わん
つく
一足の靴さえ製らず
一脚の椅子さえ製りしにあらず
まことにはかなき
かいやりすつべき反古のみ
はずか
耻しやこのペン胝を
わが指より削り去るべき
すべはもなきか
性海寺歴史公園の紫陽花写真の種類別に掲載した数が、ちょうど50種類を超えました。
性海寺では種類ごとに名前板が表示してあり、公称90種類ですが100種類以上ありました。
撮影した写真で掲載できそうなものが、まだ150枚ほどあります(約50種類)。
庭で咲いている鉄砲ユリの写真なども紹介したいのですが、どうしようか考慮中です。
なお、本日掲載分もメールサイズに縮小してあります。
ピンクダイヤモンド ブルースカイ

白舞妓 ウズアジサイ

カクレザト はるな

七段花 沢美人

美濃出身新選組隊士№2 市村鉄之助
1854年、大垣藩士であった市村半右衛門の三男として鉄之助は生まれました。
1859年に父半右衛門が大垣藩より追放され、鉄之助は親類のいる近江国国友村(現滋賀県長浜市)で育ちました。
1867年(慶応3年)の隊士募集で兄の辰之助と共に14歳で新選組に入隊しています。
兄の辰之助は両長抱として、鉄之助は土方歳三附属を命じられました(島田魁英名録による)。
同年、新選組は幕府直参に取り立てられ、鉄之助も14歳にして幕臣の身分となりました。
ところが、同年11月将軍徳川慶喜が大政奉還をしたため幕府は消滅してしまいました、
翌1868年1月の鳥羽伏見の戦いで、時代の流れには勝てず、旧幕府軍は薩長連合に大敗北となります。新選組も多くの死傷者や脱走者を出し、やむなく大阪へ撤退した後、江戸へ船で帰還しました。
その後、新選組は「甲陽鎮撫隊」を名乗り甲州防衛に向かいますが、近藤勇の行軍の遅さもあって、先に甲州へ入っていた西軍と交戦になりまたも大敗します。
結局新選組は、再度江戸へ退くことになりました。
江戸帰還後に鉄之助は歩兵募集に従事しています。
ちょうどこの頃に、兄の辰之助は新選組を脱退して郷里大垣にもどりました。
流山で局長近藤勇が捕縛された後、残った隊士たちは会津で斉藤一のグループと土方歳三のグループに分裂し、土方歳三についていた鉄之助は、その後福島、仙台へと転戦し、そして蝦夷へ向かいました。
鉄之助はは土方歳三の小姓として付き添い、土方は鉄之助を「頗る勝気、性亦怜悧」と評しています。
1869年5月はじめ、鉄之助は土方と共に戦死する覚悟でしたが、土方に箱館からの脱出を命じられました。
最初は拒否していましたが、土方の「従えなければ斬ってすてる」という言葉に逆らえず、土方の髪、写真、刀を託されて離脱しました。3ヵ月ほど後に鉄之助はは明治政府軍の包囲を掻い潜り、土方の義兄佐藤彦五郎家に乞食のような身なりで到着しました。
鉄之助は約2年ほど佐藤彦五郎家に世話になり、実家に帰って商売をしていた兄が病で倒れ、大垣に呼び戻されました。
しかし、兄の死から1年後の1873年に大垣で病死しました。
全昌寺西側にある市村家代々の墓(鉄之助・辰之助兄弟の墓)

新しい墓ですからすぐにわかります。
以上が市村鉄之助の大まかな経歴です。
最近ドラマ、アニメなどで市村鉄之助が注目されていますが、あまりにも史実とかけ離れている部分があります。
そこで、以前(3月)に書いた記事を再掲載しておきます。
美濃大垣藩出身の新選組隊士市村辰之助・鉄之助兄弟の戊辰戦争後から死亡時期まで明らかにされた史料が発表されてから、大垣市の全昌寺を訪れる新選組大好き人間やマニアが増えています。
鉄之助が土方歳三の遺品を佐藤家に届けたこともドラマや小説・マンガなどで広く知られるようになり、若い層にも受け入れられています。
でもドラマや小説は所詮フィクションであり、歴史的事実をきちんと伝えようとライフワークにしている研究家が多いですね。
市村鉄之助といえば田原坂で戦死したとか、薩摩で戦死したらしいなどと有名な歴史家や作家たちが事実であるかのように書いていますが、そのほうがロマンがあるかもしれないかな、市村鉄之助は明治6年11月16日大垣市田町で病死していることが史料で明らかになっています。
(法名養浩院廓然良機居士)
兄辰之助は前年2月7日に病没しています。
歴史的事実に目を背け、自分の思い込みや一部の新選組研究者の論文だけ信用することは後世に生きる私たちは厳に慎むべきだと思います。
「新選組熱烈フアン」を公言されているみなさんはどう思いますか?
最近私が読んだ新選組関連書籍の感想でした。
以上3月に掲載した記事でした。

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天使の歌声のキャッチコピーのとおり、澄んだ美しい透明な歌声・・・
天から舞い降りた天使のような歌声を持ってデビューした12歳の少女。
疲れた心に響き渡り、癒しのひとときを過ごせそうです。
シャルロットチャーチのピエ・イエズ
久しぶりに新美南吉の詩を一篇紹介します。
現在は文章を書くとき、パソコンでキーボードをたたくのがほとんどですが、新美南吉の時代はペンを
用いて書くのが当たり前のことでした。
そんな南吉がわが指を見て詠んだ詩<ペン胝>
わが指はペン胝あり
かえりみれば幾年
ペンを握りて物を書きしか
かなしやペン胝
われペン胝より何をか産みしと言わん
つく
一足の靴さえ製らず
一脚の椅子さえ製りしにあらず
まことにはかなき
かいやりすつべき反古のみ
はずか
耻しやこのペン胝を
わが指より削り去るべき
すべはもなきか
性海寺歴史公園の紫陽花写真の種類別に掲載した数が、ちょうど50種類を超えました。
性海寺では種類ごとに名前板が表示してあり、公称90種類ですが100種類以上ありました。
撮影した写真で掲載できそうなものが、まだ150枚ほどあります(約50種類)。
庭で咲いている鉄砲ユリの写真なども紹介したいのですが、どうしようか考慮中です。
なお、本日掲載分もメールサイズに縮小してあります。
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カクレザト はるな


七段花 沢美人


美濃出身新選組隊士№2 市村鉄之助
1854年、大垣藩士であった市村半右衛門の三男として鉄之助は生まれました。
1859年に父半右衛門が大垣藩より追放され、鉄之助は親類のいる近江国国友村(現滋賀県長浜市)で育ちました。
1867年(慶応3年)の隊士募集で兄の辰之助と共に14歳で新選組に入隊しています。
兄の辰之助は両長抱として、鉄之助は土方歳三附属を命じられました(島田魁英名録による)。
同年、新選組は幕府直参に取り立てられ、鉄之助も14歳にして幕臣の身分となりました。
ところが、同年11月将軍徳川慶喜が大政奉還をしたため幕府は消滅してしまいました、
翌1868年1月の鳥羽伏見の戦いで、時代の流れには勝てず、旧幕府軍は薩長連合に大敗北となります。新選組も多くの死傷者や脱走者を出し、やむなく大阪へ撤退した後、江戸へ船で帰還しました。
その後、新選組は「甲陽鎮撫隊」を名乗り甲州防衛に向かいますが、近藤勇の行軍の遅さもあって、先に甲州へ入っていた西軍と交戦になりまたも大敗します。
結局新選組は、再度江戸へ退くことになりました。
江戸帰還後に鉄之助は歩兵募集に従事しています。
ちょうどこの頃に、兄の辰之助は新選組を脱退して郷里大垣にもどりました。
流山で局長近藤勇が捕縛された後、残った隊士たちは会津で斉藤一のグループと土方歳三のグループに分裂し、土方歳三についていた鉄之助は、その後福島、仙台へと転戦し、そして蝦夷へ向かいました。
鉄之助はは土方歳三の小姓として付き添い、土方は鉄之助を「頗る勝気、性亦怜悧」と評しています。
1869年5月はじめ、鉄之助は土方と共に戦死する覚悟でしたが、土方に箱館からの脱出を命じられました。
最初は拒否していましたが、土方の「従えなければ斬ってすてる」という言葉に逆らえず、土方の髪、写真、刀を託されて離脱しました。3ヵ月ほど後に鉄之助はは明治政府軍の包囲を掻い潜り、土方の義兄佐藤彦五郎家に乞食のような身なりで到着しました。
鉄之助は約2年ほど佐藤彦五郎家に世話になり、実家に帰って商売をしていた兄が病で倒れ、大垣に呼び戻されました。
しかし、兄の死から1年後の1873年に大垣で病死しました。
全昌寺西側にある市村家代々の墓(鉄之助・辰之助兄弟の墓)

新しい墓ですからすぐにわかります。
以上が市村鉄之助の大まかな経歴です。
最近ドラマ、アニメなどで市村鉄之助が注目されていますが、あまりにも史実とかけ離れている部分があります。
そこで、以前(3月)に書いた記事を再掲載しておきます。
美濃大垣藩出身の新選組隊士市村辰之助・鉄之助兄弟の戊辰戦争後から死亡時期まで明らかにされた史料が発表されてから、大垣市の全昌寺を訪れる新選組大好き人間やマニアが増えています。
鉄之助が土方歳三の遺品を佐藤家に届けたこともドラマや小説・マンガなどで広く知られるようになり、若い層にも受け入れられています。
でもドラマや小説は所詮フィクションであり、歴史的事実をきちんと伝えようとライフワークにしている研究家が多いですね。
市村鉄之助といえば田原坂で戦死したとか、薩摩で戦死したらしいなどと有名な歴史家や作家たちが事実であるかのように書いていますが、そのほうがロマンがあるかもしれないかな、市村鉄之助は明治6年11月16日大垣市田町で病死していることが史料で明らかになっています。
(法名養浩院廓然良機居士)
兄辰之助は前年2月7日に病没しています。
歴史的事実に目を背け、自分の思い込みや一部の新選組研究者の論文だけ信用することは後世に生きる私たちは厳に慎むべきだと思います。
「新選組熱烈フアン」を公言されているみなさんはどう思いますか?
最近私が読んだ新選組関連書籍の感想でした。
以上3月に掲載した記事でした。


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2日ぶりの晴れの朝、
気分がすっきりする五月晴れです。
おかげで仕事がはかどりそう !
降りつづいた雨で、庭の花も最後の華やかさを競っています。
夏の花が咲くまで、庭の彩りも少なくなって寂しくなる日がもうすぐ。

新美南吉が読んだ短歌を1首だけ紹介します。
若くして同じように病に倒れた石川啄木を思い詠んだものと思われます。
「啄木も 嘆きたるなり ウインドに 映る姿の さみしきを見て」
中山道の史跡めぐりで訪れた愚渓寺で、御嶽宿から少し北へ行ったところにあります。
看板の説明は、かろうじて読めそうに撮れていました。


土方歳三(第19回)仙台から蝦夷・函館へ
10月中旬になると歳三以下新選組隊士たちは大江丸に乗船して折の浜を出帆し、蝦夷に向けて北上します。途中、南部の宮古湾の鍬ケ崎に錨をおろし、5日ほど停泊したあと宮古を発ち、10月21日にようやく蝦夷鷲ノ木に到着しました。歳三が榎本らと新天地を求めて仙台を出てから9日目のことでした。
新選組は大鳥圭介の軍の戦闘部隊として属し、鷲ノ木から箱館に向かいます。歳三は額兵隊、陸軍隊を率いて鷲ノ木から川汲を経て同じく箱館へ向かいました。このとき、歳三には島田魁ら新選組精鋭の者がついていましたが、戦闘部隊の役目だけでなく歳三を護衛する目的もありました。
10月24日、歳三が率いる額兵隊、陸軍隊は川汲で松前藩の軍と交戦になりましたが、これを圧倒して蹴散らしました。
10月26日には榎本武揚ら旧幕軍は松前藩の抵抗を受けずに五稜郭を無血占領しました。歳三も夕刻に五稜郭に入城しましたが、新選組や遊撃隊、工兵隊は七飯より大野の平定に向かっています。
榎本らは実戦経験に乏しく、松前総攻撃をするための指導者になれるほどの人物は旧幕軍のなかにいませんでした。榎本は歳三の力量を高く買っていて、松前総攻撃の総督に歳三を任命します。
歳三が指揮する先鋒軍は茂辺から萩砂村、知内村、福島と戦いに勝ち、勢いを増して松前に進撃します。11月5日には松前城の攻撃を開始しますが、松前の兵は城から脱走してあっけなく戦いは終了しました。
このとき新選組は市中取締りを命じられて、称名寺を市中取締りの本陣としました。
歳三は部隊を半分ずつに分け城下と荒谷の二箇所に駐屯させました。
11月上旬には歳三の部隊は江差に向かい、わずか5日で江差を占拠します。ちょうどその頃になりますが、旧幕軍の旗艦開陽が座礁してしまいます。
11月25日、ついに歳三は五稜郭に入りました。その日から20日後の12月15日、榎本武揚を中心とした旧幕軍は蝦夷平定を祝って101発の祝砲を撃ち、各国領事を招いて祝宴を催しました。
ここに函館新政府が誕生したのです。
士官以上の投票によって、函館新政府は総裁に榎本武揚、副総裁松平太郎、海軍奉行荒井郁之助、陸軍奉行大鳥圭介、陸軍奉行並土方歳三を選出しました。
榎本らは歳三に陸軍奉行並でなく軍総督を勧めたようですが、歳三は役職など何の意味も無いことを
承知していて、固辞したようです。(以下次号へ)
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気分がすっきりする五月晴れです。
おかげで仕事がはかどりそう !
降りつづいた雨で、庭の花も最後の華やかさを競っています。
夏の花が咲くまで、庭の彩りも少なくなって寂しくなる日がもうすぐ。


新美南吉が読んだ短歌を1首だけ紹介します。
若くして同じように病に倒れた石川啄木を思い詠んだものと思われます。
「啄木も 嘆きたるなり ウインドに 映る姿の さみしきを見て」
中山道の史跡めぐりで訪れた愚渓寺で、御嶽宿から少し北へ行ったところにあります。
看板の説明は、かろうじて読めそうに撮れていました。



土方歳三(第19回)仙台から蝦夷・函館へ
10月中旬になると歳三以下新選組隊士たちは大江丸に乗船して折の浜を出帆し、蝦夷に向けて北上します。途中、南部の宮古湾の鍬ケ崎に錨をおろし、5日ほど停泊したあと宮古を発ち、10月21日にようやく蝦夷鷲ノ木に到着しました。歳三が榎本らと新天地を求めて仙台を出てから9日目のことでした。
新選組は大鳥圭介の軍の戦闘部隊として属し、鷲ノ木から箱館に向かいます。歳三は額兵隊、陸軍隊を率いて鷲ノ木から川汲を経て同じく箱館へ向かいました。このとき、歳三には島田魁ら新選組精鋭の者がついていましたが、戦闘部隊の役目だけでなく歳三を護衛する目的もありました。
10月24日、歳三が率いる額兵隊、陸軍隊は川汲で松前藩の軍と交戦になりましたが、これを圧倒して蹴散らしました。
10月26日には榎本武揚ら旧幕軍は松前藩の抵抗を受けずに五稜郭を無血占領しました。歳三も夕刻に五稜郭に入城しましたが、新選組や遊撃隊、工兵隊は七飯より大野の平定に向かっています。
榎本らは実戦経験に乏しく、松前総攻撃をするための指導者になれるほどの人物は旧幕軍のなかにいませんでした。榎本は歳三の力量を高く買っていて、松前総攻撃の総督に歳三を任命します。
歳三が指揮する先鋒軍は茂辺から萩砂村、知内村、福島と戦いに勝ち、勢いを増して松前に進撃します。11月5日には松前城の攻撃を開始しますが、松前の兵は城から脱走してあっけなく戦いは終了しました。
このとき新選組は市中取締りを命じられて、称名寺を市中取締りの本陣としました。
歳三は部隊を半分ずつに分け城下と荒谷の二箇所に駐屯させました。
11月上旬には歳三の部隊は江差に向かい、わずか5日で江差を占拠します。ちょうどその頃になりますが、旧幕軍の旗艦開陽が座礁してしまいます。
11月25日、ついに歳三は五稜郭に入りました。その日から20日後の12月15日、榎本武揚を中心とした旧幕軍は蝦夷平定を祝って101発の祝砲を撃ち、各国領事を招いて祝宴を催しました。
ここに函館新政府が誕生したのです。
士官以上の投票によって、函館新政府は総裁に榎本武揚、副総裁松平太郎、海軍奉行荒井郁之助、陸軍奉行大鳥圭介、陸軍奉行並土方歳三を選出しました。
榎本らは歳三に陸軍奉行並でなく軍総督を勧めたようですが、歳三は役職など何の意味も無いことを
承知していて、固辞したようです。(以下次号へ)
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三日ぶりの記事で何を書くか考えましたが、最初に五月にちなんだ詩を2つ紹介します。
2つとも新美南吉の作品ですが、いずれも小動物を主題にして書いています。小動物を主題にすることにより、南吉がユーモア精神を詩に反映させた典型的な作品だと思います。
みなさんの率直な感想をいただければありがたいと思います。
五月の星は
りんご
五月の星は林檎酒の泡を吹き
蛙の歌手たちの咽喉をうるおす
五月の太陽
五月の朝の太陽は
晴衣をもたぬ雀に
金のころもをかしてやる
「子どもの日」にあたり伝えたいこと
連休中後半に「こどもの日」がありました。
子どもさんのいらっしゃる方は、旅行や里帰りなどで忙しく、お疲れの方もあるかと思います。
「こどもの日」は過ぎましたが、私がふと考えたことを少しだけ述べさせてもらいます。
今年で批准15周年を迎える「子どもの権利条約」には、「子どもたちは健康に生まれ、安全な
水や十分な栄養を得て、健やかに成長する権利をもつ」と書かれています。
今の世の中、子どもたちはたして本当に条約に述べられているような状況にあるでしょうか。
次代を担う子どもたちが健やかに成長できるように、私たち大人が一度ふり返る必要があると
思います。
予期せぬ突然の来訪者
4日の昼頃に、まったく突然に友人が訪ねてきました。
彼女は私より20歳以上も上なので、友人というのは少し的外れかもしれませんが、自然体で
付き合ってくれています。
突然のことなのでどうしたものか考えた末、近くの温泉に泊まりに行くことにしました。
ブログのことも気になったのですが、何せ「友遠方より来る」ですから、こちらを優先しました。
田舎ですから何軒か電話するとキャンセルで空き室があり、受け入れてくれることに。
旅館につくと早速温泉に直行し、ゆったり気分で延々1時間半。
彼女は平然としていましたが、私はヘロヘロ状態で部屋にもどりました。歳をとると長湯でも大
丈夫なのかななんて思いましたが、どうも湯あたりしないコツがあるみたいです。
夕食になってお酒が入ると、彼女は「本当は奥飛騨へ行きたかった。ここなら3日はいないとつ
まらない」と言い出し、仲居さんに「三日間泊めてほしい」と交渉をはじめました。
どうなるのか心配していましたが、図々しいのが功を奏したのかあっさりOKが出て、私は面食
らうばかりでした。
おばさんも年季が入ると、少々図々しい方がいいこともあるみたいです。
そんなこんなで3日間何もしないで温泉につかり続け、彼女から解放されたのは6日の夕刻で
した。
下の写真は揖斐川町の景勝地揖斐峡にあるつり橋で、通称「恋のつり橋」と呼ばれています。
つり橋を渡るとき揺れるため、男性と女性が手をつないで渡ろうとすることが多く、それがきっかけで恋人になったという話が伝わり、今ではときどきカップルが訪れることから看板まで出ています。
対岸まで橋を渡ると通称「恋の鐘」と絵馬かけがあります。
恋が成就するかどうかはわかりませんが、観光名所でもあり、カップルの方は一度渡ってみてはいかがでしょう。(国道303号沿い揖斐川に架かっているつり橋)

3日間ものんびりしてしまったので仕事も溜まり放題、しばらく忙しくなりそうです。
土方歳三の連載記事は明日掲載します。


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2つとも新美南吉の作品ですが、いずれも小動物を主題にして書いています。小動物を主題にすることにより、南吉がユーモア精神を詩に反映させた典型的な作品だと思います。
みなさんの率直な感想をいただければありがたいと思います。
五月の星は
りんご
五月の星は林檎酒の泡を吹き
蛙の歌手たちの咽喉をうるおす
五月の太陽
五月の朝の太陽は
晴衣をもたぬ雀に
金のころもをかしてやる
「子どもの日」にあたり伝えたいこと
連休中後半に「こどもの日」がありました。
子どもさんのいらっしゃる方は、旅行や里帰りなどで忙しく、お疲れの方もあるかと思います。
「こどもの日」は過ぎましたが、私がふと考えたことを少しだけ述べさせてもらいます。
今年で批准15周年を迎える「子どもの権利条約」には、「子どもたちは健康に生まれ、安全な
水や十分な栄養を得て、健やかに成長する権利をもつ」と書かれています。
今の世の中、子どもたちはたして本当に条約に述べられているような状況にあるでしょうか。
次代を担う子どもたちが健やかに成長できるように、私たち大人が一度ふり返る必要があると
思います。
予期せぬ突然の来訪者
4日の昼頃に、まったく突然に友人が訪ねてきました。
彼女は私より20歳以上も上なので、友人というのは少し的外れかもしれませんが、自然体で
付き合ってくれています。
突然のことなのでどうしたものか考えた末、近くの温泉に泊まりに行くことにしました。
ブログのことも気になったのですが、何せ「友遠方より来る」ですから、こちらを優先しました。
田舎ですから何軒か電話するとキャンセルで空き室があり、受け入れてくれることに。
旅館につくと早速温泉に直行し、ゆったり気分で延々1時間半。
彼女は平然としていましたが、私はヘロヘロ状態で部屋にもどりました。歳をとると長湯でも大
丈夫なのかななんて思いましたが、どうも湯あたりしないコツがあるみたいです。
夕食になってお酒が入ると、彼女は「本当は奥飛騨へ行きたかった。ここなら3日はいないとつ
まらない」と言い出し、仲居さんに「三日間泊めてほしい」と交渉をはじめました。
どうなるのか心配していましたが、図々しいのが功を奏したのかあっさりOKが出て、私は面食
らうばかりでした。
おばさんも年季が入ると、少々図々しい方がいいこともあるみたいです。
そんなこんなで3日間何もしないで温泉につかり続け、彼女から解放されたのは6日の夕刻で
した。
下の写真は揖斐川町の景勝地揖斐峡にあるつり橋で、通称「恋のつり橋」と呼ばれています。
つり橋を渡るとき揺れるため、男性と女性が手をつないで渡ろうとすることが多く、それがきっかけで恋人になったという話が伝わり、今ではときどきカップルが訪れることから看板まで出ています。
対岸まで橋を渡ると通称「恋の鐘」と絵馬かけがあります。
恋が成就するかどうかはわかりませんが、観光名所でもあり、カップルの方は一度渡ってみてはいかがでしょう。(国道303号沿い揖斐川に架かっているつり橋)


3日間ものんびりしてしまったので仕事も溜まり放題、しばらく忙しくなりそうです。
土方歳三の連載記事は明日掲載します。


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今日の一句 ~「清流を見て来てすずし旅の宿」~ 南吉
今日、明日はこんな気分でいたいなと思っています。

明日は裏木曾の妻籠・馬籠の史跡めぐりへ行くことにしました。
高速料金も1000円だから、費用も少しだけ。
光徳寺に、藤村堂、宿場町通り、考えただけでもワクワク。
何度行ってもいいところです。
お金と暇のあるかたはぜひお出かけを!
私の場合、暇はあるけど金はなしで、いわゆる「貧乏暇なし」とは少し違います。
でも安い民宿もたくさんあるから、お泊りでも心配なし。
別に私は南木曽町の回し者ではございませんので誤解のないようにね。
お天気がよければ恵那峡の藤も見てきたいな~
きれいだったら写真に撮ってこようかな。
なお、勝手ながら、土方歳三(第14回)の連載は次回更新時に掲載させていただきます。
今日のお気に入りの花


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今日、明日はこんな気分でいたいなと思っています。

明日は裏木曾の妻籠・馬籠の史跡めぐりへ行くことにしました。
高速料金も1000円だから、費用も少しだけ。
光徳寺に、藤村堂、宿場町通り、考えただけでもワクワク。
何度行ってもいいところです。
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私の場合、暇はあるけど金はなしで、いわゆる「貧乏暇なし」とは少し違います。
でも安い民宿もたくさんあるから、お泊りでも心配なし。
別に私は南木曽町の回し者ではございませんので誤解のないようにね。
お天気がよければ恵那峡の藤も見てきたいな~
きれいだったら写真に撮ってこようかな。
なお、勝手ながら、土方歳三(第14回)の連載は次回更新時に掲載させていただきます。
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